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第8回 〔閑話休題〕新しい識字問題の複雑さ

〔閑話休題〕ちょっと一休みして気分転換しましょうかね。  福岡県人権研究所では紙媒体によるニュース紙『りべらしおん』を6月から電子媒体に切り替えました。理由はいろいろあります。しかし、それらの理由をとりまとめて言えば新しい識字問題だからです。  それならば、IT機器を使い慣れていない人のために紙媒体の『りべらしおん』を続けるべきではないか、と考える向きもあるかと思う。しかし、それは識字運動の趣旨とは異なるのではないかと考えるのです。  「同和」教育運動の中で識字が大きな問題となったのは、被差別部落の「親たち」に読み書きの出来ない人たちがいるという事実に出会ったことに始まります。それは「親たち」であって、「子どもたち」ではありませんでした(とりあえず)。たとえば部落解放同盟の京都・行橋地区協議会の野田徳治委員長(1985年当時)の「そのころ(昭和30年代半ば頃-新谷注)、松蔭支部で教師の側から父母との連絡が全然とれない。という問題提起があり、よく調べてみると学校側からの連絡文(保護者会、家庭訪問など)を父母が読めないからだ、ということがわかったのです」(福岡県同和教育研究協議会編『解放教育の軌跡Ⅱ』1991)という証言がそれを物語っています。  そのようにして始まった識字運動は差別によって文字を学ぶ機会を失った人たちに対する補償活動であったということになります。差別によってあらかじめ文字を奪われた人たちに文字をあらためて獲得してもらうということが基本的人権を確保するための第一歩だったからです。そうした過程でたとえば人権関係の集会では特定の文書に「ふりかな」をふっていたのもそうした配慮であったと言えるでしょう。また、先に識字問題が「(とりあえず)親たち」と(とりあえず)という言葉を付記したのは 読み書き教室 や 夜間中学校 などが現在も求められているし、そのような識字活動が進行中ということを意味しています。  ところで、識字という言葉の意味は「文字を読めるようになること」(小学館『日本国語大辞典』)です。「読めるようになる」というのは単に「Aがエーだあることを情報として知る」ことではありません。  識字運動の中から教育理論を編み出したパウロ・フレイレは次のように書いています。 -----------------------------------------------

第7回 差別語は人を殺すよ

 話を愛国心に戻そう。  添田唖蝉坊は前回紹介した「拳骨武士」のような壮士演歌をひっさげて街頭で歌い、歌本を売って生業としていた。壮士演歌の最初のものは 「ダイナマイト節」 ではないかと言われる。それは添田唖蝉坊の言によれば「此の時から新流行歌、壮士節を『演歌』と称するようになつた」(添田唖蝉坊『流行歌・明治大正史』)そうである。どことなく「拳骨武士」に曲調が似ている気がするが、曲はテキトーであり、それにいろいろ替え歌の歌詞を載せて新作を作ったものらしい。  おおよそ定番としては 「愉快節」 「欣舞節」 というのがあって、この曲に時世に合わせた歌詞を載せて、その歌本を売って稼ぎにしたものである。歌詞は七五調の繰り返しなので乗りはいいし、替え歌による歌詞も載せやすい。       「愉快節」だとこんな感じかな。   愉快節  条約改正 徳川の幕政続きて三百余年 泰平無事に慣れしより  世は文弱に流れつゝ 上下優柔不断にて    士気は全く衰退し 眠る嘉永の六年頃    忽然一発砲声の 相州浦賀に轟きて    驚き攪る春の夢  《中略》 勇み進んでもろともに  対等条約断行し 赤鬢奴に泡吹かせ    多年の鬱憤晴らさんは 真に吾人の大急務    愉快じゃ  愉快じゃ                  (添田唖蝉坊『唖蝉坊流生記』)  「欣舞節」だとこちらが先らしい。   欣舞節 日清談判破裂して    品川乗り出す吾妻鑑 西郷死するも彼奴がため 大久保死するも彼奴がため  《中略》 万里の長城乗つ取つて  一里半行きや北京城よ   欣慕々々々々々々  愉快々々                (添田唖蝉坊『流行歌・明治大正史』)  ちなみにこの歌は日清戦争時にできたものではなく「戦争に先だつ四五年前に作られた架空仮想の歌である」と 『流行歌・明治大正史』に唖蝉坊は書いている。つまりは大衆の素朴なナショナリズムは草の根的に広まっていたのである。そして、《中略》の処には以下に示すような侮蔑語も挿入されていた。  唖蝉坊は「当時原価四厘の歌本を、壮士たちは一銭五厘で売つてゐた。私はそれを二銭で売つた」(添田唖蝉坊『唖蝉坊流生記』)そうである。明治23、4年の頃である。やがてこのような歌本売りは苦学生の生活費稼ぎの定番の一つとなっていった。たとえば『東京自活苦学生案内』(明治37

第6回 鬱憤はゲンコツで

 一方で、この頃(明治20年頃)、いわゆる自由民権運動の壮士たちによる演歌というものが登場してきた。川上音二郎の 『オッペケペー節』 なんかは聞いたことがあるだろう。これは生音が残っている。僕はCDも持っている。ま、多くの人は聞いたといっても、そういうものがあると聞いた程度で、曲自体は聞いていないのかもしれないけれど、それはそれでいいとしよう。で、そういう中から添田唖蝉坊という演歌師が登場する。たとえば明治25年、添田唖蝉坊20歳の時に作られたとされる 『拳骨武士』 (「武士」は「節」であったり、「武志」と書かれたりもした)は不平等条約改正がままならないことへの憤りを歌っている。                ※文中の 青い文字 をクリックすると参考資料が出ます。 ●力揃えば踏石さへも 上げてゆるがす ゲンコツ 霜柱   ドクシンロ フツエーベー シッケイキワマルゲンコツバイ ●早くたがひに覚悟をきめて 確乎(しかと)条約 ゲンコツ 結ばんせ   ドクシンロ フツエーベー シッケイキワマルゲンコツバイ  ●芸者狂ひが能ではないよ 国の安危を、 ゲンコツ、 議すがよい   ドクシンロ フツエーベー シッケイキワマルゲンコツバイ ♪♪他の歌詞は著作権上省略。youtubeで聴いてくださいな。  ※歌詞は添田知道『演歌の明治大正史』〔添田唖蝉坊・添田知道著作集Ⅳ〕より抜粋  この「ドクシンロ フツエーベー シッケイキワマルゲンコツバイ」というリフレインは唖蝉坊によれば「独清露仏英米どいつもこいつもオレを馬鹿にしてゐやがる、畜生メ、と言つたところである」(添田唖蝉坊『流行歌・明治大正史』〔添田唖蝉坊・添田知道著作集別巻〕)という言わば憎まれ口である。  聴いてみたい人はこの 『拳骨武士』 をクリックするといい。土取利行の名演が聴ける。  土取利行は若い頃はフリージャズで名をなしたミュージシャンであったが、「連れ合い」であった桃山晴江が添田唖蝉坊の息子添田知道の弟子であったことを機に桃山晴江亡き後添田唖蝉坊演歌の継承に力を入れるようになったんだと(鎌田慧・土取利行『軟骨的抵抗者 演歌の祖・添田唖蝉坊を語る』金曜日)。  で、土取利行によれば、「彼(添田唖蝉坊)はそこで従来の壮士たちの慷慨悲憤をぶちまける怒鳴り演歌ではなく、市井の民衆の心に沁み入る風刺、諧謔に満ちた歌を多く作り