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第18回 入試に必要な学力とは

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 日本では学校ができたとたんに受験勉強が始まったといっても過言ではない。写真は岩崎鉄次郎編『受験必携理化学問答』(明治23年刊)と吉見経綸校閲・篠田正作纂輯『受験予備日本地理問答』(明治25年刊)という受験参考書である。明治23年といえば、ようやく日本の学校制度が整いつつあった頃である。明治19年に高等中学校という制度ができた。これは官立の第一から第五までと、山口高等中学校、鹿児島高等中学校造士館の7校であった。帝国大学は東京に一校のみ、その下の高等中学校はこの7校のみであった。  『受験予備日本地理問答』のほうは明治24年5月に出版され、その後版を重ねてこの写真のものは第6版で明治25年5月に刊行されている。あまり緊急性を感じてもいないようなのである。また、こちらにも官立学校試験問題が掲載されているが、高等中学校以外に高等商業学校、農林学校、そしてなんと大阪府尋常中学校の入試問題が載っている。当時の高等中学校はまだ本科まで十分に生徒が満たされておらず、本科の下に3カ年の予科をさらにその下に2カ年の補充科を設けていた。明治25年にはようやく補充科の募集を止めようかなというところであって、受験生は予科とか補充科を目指しての受験生であったとも考えられる。だから尋常中学校の入試問題も一緒に載っているのはそういうことなのである。  そんなことから見ても、現在の受験事情とは全く異なる情勢であったと理解してほしい。そういう事情を知った上で「理化学」の第一高等中学校の入試問題を見てみよう。 ●物体ノ地上ニ落ルハ何故ゾ(物体が地上に落ちるのはどうしてか) ●船ノ水上ニ浮フ理ハ如何(船が水に浮かぶ理由は何か) ●「ポンプ」ヲ以テ水ヲ低キ所ヨリ高キ所ニ挙ル理ハ如何(ポンプで水を低いところから高いところに汲みあげるメカニズムは何か) ●水入ニハ必ス二個ノ穴アリ其用如何(水入れには必ず二つの穴があるがそれは何のためか)  こういうのが30題近く載っている。いずれも身の回りの物理学という感じの問題だが、物理学的に説明するとなれば、なかなかたいへんだろう。物理学の考え方に熟知していなくては説明は難しいと思う。  ちなみに本文では同様の問いに対して答えが示される「問答」式になっているので、一つ二つの例を見てみよう。 ●重心と中心の区別如何(重心と中心の区別はどういうことか) 重心トハ重ノ聚ル所ニ

第17回 無批判に覚えるということ

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 おもしろい冊子がある。『学習便覧 知識の宝庫』というスマホサイズの小冊子、昭和2年の刊行だ。「物知り博士の虎の巻!」「一冊で小学全科が分る!」と銘打ってあるのが興味をそそるだろう。  で、どんな冊子なのだろうか。判型はスマホサイズ、230頁(8㎜)ほどの胸ポケットにも入りそうな本である。  内容はまず皇室〔天皇とその妻子〕、朝鮮王公族〔朝鮮を併合しているのでそういうことになる〕、その次に皇族〔秩父宮、高松宮といったおなじみの宮家の面々〕の名簿があり、その後に「はしがき」があって、この小冊子の趣旨が書いてある。 --------------------------------------------------------------------  本書は小学校尋常高等の全科目の越幾斯(エキス)であります。即ち各学科の精髄を抽き出したものですありますから、この書一冊だけあれば、小学校の各学科を一目で知ることが出来て、小学児童のために有益であるのみならず、御家庭に於て御子様方の勉強の御指導をなさるのに至極便利かと信じます。其れに本書は、特に日常生活に必要な事項を摘記してありますから、実生活にも直ちにご利用できます。・・・・・・(以下略) --------------------------------------------------------------------  構成は ○修身    ○国語    ○地理    ○国史 ○理科    ○技能    ○雑     ○算術 ○商業    ○英語 となっている。よくわからないものとして「技能」。この中身は「音楽調名」「楽譜記号の名称」「発相記号」「速度記号」「剣道の流名と流祖」「柔道乱捕の業と流名」「各種競技レコード一覧」「裁縫積り方公式」「手工の種類」となっている。  「発相記号」「速度記号」とはピアニッシモとか、カンタビレ、アンダンテとかいう音楽のナニだ。ご理解いただきたい。剣道や柔道の情報はよしとして、「各種競技」とは陸上競技と競泳の世界記録と日本記録の一覧だ。「裁縫積リ方公式」は裁縫の時の約束事みたいだ(僕にはよくわからない)。たとえば本裁肌襦袢は袖丈×2+身丈×4+衿丈=總用布というやつのようだ。  ということで、「技能」には音楽、体育、裁縫、技術などの基礎知識が並んでいる。  「雑」に書かれているのは

第16回 学校教育と受験勉強

  前回は受験勉強は個人の問題だと書いた。仲間意識だとか、共にがんばるとか、そんなことを言いたい人もいるのかもしれない。しかし、それはお友達同士で「いっしょにがんばろうね」みたいに声を掛け合う程度のなら友情の問題なのでともかく、そこに学校やら教師が介入してはいけないのだ。  なぜか。それは学校教育の目的ではないからである。この国の国民は法より因習を重んじる傾向があるので、少なくとも「日本は法治国家である」ということくらいは学校で教えてほしい。教育の目的についてはいくつかの法律に明記されている。  まずは教育基本法。  第一条に「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とある。「人格の完成」と「平和で民主的な国家及び社会の形成者」を育成することと書いてある。どこにも上級学校への進学などは書いていない。  そして第二条には「教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。」として以下の5点の目標が掲げられている。(めんどくさければ読まなくてもいい) 一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。 二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。 三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。 四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。 五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。  「我が国と郷土を愛する」あたりに過敏に反応する人もいるかもしれないが、ワールドカップで日本が勝った時に「よしっ!」と思った人は文句を言ってはいけないし、相手国を応援した人は何か特別な理由があるのだろう。ワールドカップは国と国の対抗戦だから、どうしても参加国にとってナショナリズムは否定しにくい。ま、その程度のことである。しかし、 進学だの受験だのという

第15回 偽善者を育てる

  以前、『平和で民主的な国と社会を創る道徳教育のススメ』(福岡県教育総合研究所)という小冊子を書いたのだが、その中で天野貞祐の『道理の感覚』(1937年)の言葉を引用して、天野の修身科教育に対する批判を以下の3点に整理してみた。  ①生徒が偽善的になる  ②生徒が道徳的な価値に対して無関心になったり反抗的になる  ③道徳的価値が他人事になってしまう  なので、このことについては当該小冊子を読んでいただければいいのだが、関係者以外には手に入りにくい冊子なので、上記のように要点だけを挙げておいた。そして、天野が修身科について書いたことは、人権においてもあてはまる。人権もまたひとつの社会的価値だからである。  偽善的というのは口先では「選挙の時に投票するのは国民の権利」、「差別はいけない」し、「人権は大切」とか言ったり、試験の答案やアンケートには書くけれど、実際には選挙には行かないし、いじめはするし、人権なんてめんどくさいと思っていることだ。口ではきれいごとを言い、実際は現実的に本音で生きている。  自分のことを振り返りつつ思うのは、人間というのはどこかしら偽善的なものである。僕自身もそうだし、否定はしない。だけどもそのズレを少しでも少なくしていくことが大切なのではないだろうか。また、逆に言えばズレが大きいほど生きるのはしんどいことになる。自分にとって意味のなさそうなことを無理に覚え、それとはちがう生き方をする。しかし、その生き方に迷うた時にすがる〈知〉がない。自分にとって意味がないと思っていた受験知は根本から意味を失っているだろうからだ。本音にちかいところで生きていくのがいちばん楽だということだ。  それなら自然にいじめをしない生き方になればいい。あたりまえのこととして選挙に行くようになればいい。そういうふうに人権意識や権利意識が身についていけばいいのだが、天野貞祐が指摘したように一方的に「人権は大切」「いじめはいけない」、「選挙権は国民の権利だ、と試験の時は書いておけ」、「労働三権とは 団結権、団体交渉権、団体行動権というを覚えとけ」 といった授業のやり方では、偽善者を育てるだけだ。いじめをしない人間を育てる、選挙に行って投票する人間を育てる、就職したら労働組合に入って自分たちの権利を守る。そういうふうに学びの成果を自分の身におこなって初めて教育の成果があったという