第7回 差別語は人を殺すよ

 話を愛国心に戻そう。

 添田唖蝉坊は前回紹介した「拳骨武士」のような壮士演歌をひっさげて街頭で歌い、歌本を売って生業としていた。壮士演歌の最初のものは「ダイナマイト節」ではないかと言われる。それは添田唖蝉坊の言によれば「此の時から新流行歌、壮士節を『演歌』と称するようになつた」(添田唖蝉坊『流行歌・明治大正史』)そうである。どことなく「拳骨武士」に曲調が似ている気がするが、曲はテキトーであり、それにいろいろ替え歌の歌詞を載せて新作を作ったものらしい。
 おおよそ定番としては「愉快節」「欣舞節」というのがあって、この曲に時世に合わせた歌詞を載せて、その歌本を売って稼ぎにしたものである。歌詞は七五調の繰り返しなので乗りはいいし、替え歌による歌詞も載せやすい。
     「愉快節」だとこんな感じかな。

  愉快節  条約改正

徳川の幕政続きて三百余年
泰平無事に慣れしより  世は文弱に流れつゝ
上下優柔不断にて    士気は全く衰退し
眠る嘉永の六年頃    忽然一発砲声の
相州浦賀に轟きて    驚き攪る春の夢

 《中略》

勇み進んでもろともに  対等条約断行し
赤鬢奴に泡吹かせ    多年の鬱憤晴らさんは
真に吾人の大急務
   愉快じゃ  愉快じゃ

                 (添田唖蝉坊『唖蝉坊流生記』)

 「欣舞節」だとこちらが先らしい。

  欣舞節

日清談判破裂して    品川乗り出す吾妻鑑
西郷死するも彼奴がため 大久保死するも彼奴がため

 《中略》

万里の長城乗つ取つて  一里半行きや北京城よ
  欣慕々々々々々々  愉快々々

               (添田唖蝉坊『流行歌・明治大正史』)

 ちなみにこの歌は日清戦争時にできたものではなく「戦争に先だつ四五年前に作られた架空仮想の歌である」と『流行歌・明治大正史』に唖蝉坊は書いている。つまりは大衆の素朴なナショナリズムは草の根的に広まっていたのである。そして、《中略》の処には以下に示すような侮蔑語も挿入されていた。
 唖蝉坊は「当時原価四厘の歌本を、壮士たちは一銭五厘で売つてゐた。私はそれを二銭で売つた」(添田唖蝉坊『唖蝉坊流生記』)そうである。明治23、4年の頃である。やがてこのような歌本売りは苦学生の生活費稼ぎの定番の一つとなっていった。たとえば『東京自活苦学生案内』(明治37年)、『東京に於ける就職と其の成功』(大正5年)などの文献に苦学生の生活費を稼ぐ手段として登場するのであるが、おもしろいことに原価と売り上げは唖蝉坊が演歌を始めた頃と変わっていない(これらの文献の内容は巻末に紹介しています。暇な人は見てくだされ。)。ということは唖蝉坊が演歌を始めた明治20年代は相対的にいい稼ぎだつたと思われる。

 で、話は愛国心に戻そう。唖蝉坊は日清戦争直前の明治27年、北陸に旅をした。そして、「越前福井へ入った頃、日清間の風雲がいよいよ強くなって、人は皆口を極めて支那を罵り、豚尾漢とかチャンチャン坊主、慈姑頭などと言ってゐた」(『唖蝉坊流生記』)と書き残している。唖蝉坊の回顧に書かれているいくつかの侮蔑語は日清関係の悪化と共に強まり、日清戦争を機に侮蔑意識をともなって定着したと言われる(小松裕「近代日本のレイシズム 民衆の中国(人)観を例に」『熊本大学文学論叢 78』2003)。小松氏によれば、「日清戦争の最中、新聞紙面では『チャンチャン』『豚尾漢』『豚兵』のラッシュであった」(前掲論文)という。罵倒語が侮蔑語になり、戦争を機に差別語になって定着したということだ。

 ところで、自由民権運動というとどういうイメージを持っているのだろうか。たとえばある教科書では「自由民権運動は、どのような社会の実現を求めていたのでしょうか」という問いを立てて授業を進めようとしている(『新編 新しい社会 歴史』東京書籍)。で、本文中には「板垣などは大久保の政治を専制政治であると非難し、議会の開設を主張しました。これが、国民が政治に参加する権利を確立を目指す自由民権運動の出発点です」と位置づけられ、「運動は、自主的に憲法草案を作成する方向へと進み、多くの草案が民間で作成されました」(同書)というふうに記述されているけれど、自由民権派の思想の本質的な考え方には触れられていない。要求項目としての国会開設や憲法制定というスローガンが〔戦後民主主義に於ける正義の味方〕みたいな扱いになってはいないだろうか。
 もとより、自由民権派は愛国心が強い。板垣退助は『自由党史』の「題言」に「由来、自由党の主義は一以て之を貫けり、何ぞや、曰く、国家観念によりて調節せられたる個人自由の主義即是なり」と書き記していることから明白であろう。『自由党史』は岩波文庫で出ているので、授業の前に拾い読みくらいはしておいた方がいいと思う。そのことで、明治大正史の流れがぐっとわかりやすくなるだろう。
 その愛国心が「敵」を作ることで今で言うヘイトスピーチを構成する侮蔑語、差別語を生み出したということになる。戦争は敵があってはじめて行われる。極端なことを言えば自由民権運動から他国・他民族に対する差別語が生まれ、ヘイトスピーチが生まれたということでもある。 
 実際、添田唖蝉坊が福井に入り、「宿を定めてその夜町の目抜きの場所を選んで演歌をはじめると、たちまち群衆に囲まれた」(添田唖蝉坊、前掲書)というように、演歌はたいへんな人気だった。そして、時世を詠んだ欣舞節を歌った。で、演歌には必ず「前説明」とか「結末の辞」をつけて歌の内容を解説したようなのだが、そのときに群衆の中から「支那は弱い、日本人一人で十人くらい蹴飛ばせる」などと叫ぶ者がいたので、「侮ることはよくない」と言うと、「支那の贔屓をする、支那の回し者だ!」というような野次が飛んできて、それに反応した群衆が彼を取り囲んで大騒ぎになったそうな。身の危険を感じた唖蝉坊は、騒ぎを聞いて駆けつけた警察官に助けられ、這々の体で難を逃れたということであった(『唖蝉坊流生記』)。
 唖蝉坊は「私はこんなわからず屋の多い土地はないと思ったが、人の気が支那問題で昂ぶってゐたためであらうし、日本の国民性のあらはれだといふ気がした」(添田唖蝉坊、前掲書)と述懐している。これが「日本の国民性」かどうかはさておき、支那(=清)という敵が現れたことで、愛国心は「敵」への憎悪になり、暴力的雰囲気を作り上げ、国民を戦争へ駆り立てる。それを私たちはこうやって歴史から学んだはずなのだが。いやいや、まだ学んでいないのだな。


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〔暇があったら見て欲しい文献からの参照部分〕

※神田小川町辺ニテ毎夜毎夜節面白ク欣舞ふしヲ歌フ書生ノ収入ヲ記サンニ一夜ニ売ル部数ヲ三十部ト仮定セハ其売上代金四十五銭原価ハ若シ自己ノ出版ナラハ一部僅ニ三厘位ニテ出来得シドモ他ノ出版ヲ受売リスル時ハ一枚ニ付五厘位ノ割合ナレハ三十部ニテ其純益三十銭位ナレハ一ケ月積算スレハ九円ノ収入ヲ得ルナリ然レトモ

・・・・・尤モ声自慢ノ人ハ無暗ニ得意カリテ大声ヲ発シ居ル者ニ就キ之ヲ尋ヌルニ是レ即チ文句ノ勇壮ナル二増シテ繰返シノ妙ナルト声ノ好キニ惚レテ美人ノ顔ヲ覗キ込マレシ時ニハ海老茶式部マテ後ニ廻ハリテ窃ニ私二モ一冊頂戴ナト云フカ如キ愉快モアレハナリ云々ト自負モ亦タ甚ダシト云フヘキナリ・・・

(森泉南『東京自活苦学案内』東華堂 明治37年)

※各所に散在せる神社仏閣の縁日にて書生が「ヴアイオリン」を弾じ若くは欣舞節歌を節面白く歌ふて一枚摺の印刷物を販売するものあり其代価は一枚一銭五厘乃至二銭にして原価は一枚三厘乃至五厘であるが聞く所によれば一夜に四五十枚は売れることなれば一枚二銭にして五十枚売れば一円となるが若し自分にて出版したるものなれば一枚二三厘にて出来るものであるから純益は一層多くなるのであるが一夜に五十枚余も売る者は音声も善く節も面白く可笑しく歌ふ者ならでは不可能である此の如く一夜に一円の売上なれば一ケ月に三十余円になるが其内より原価四厘即ち二円を控除し残余は純益にして二十八円余になるのである
・・・・・如此我聞によれば美音高調の書生は時に肺から女学生の襲撃又は追撃を受け又は其の伏兵に衝突し或は開戦し或は講和し或は降参し或は開城し或は最後の通帳に達する者往々之れありとのことなれば意旨堅固にして鉄石の如き人に非らざれば潜航艇の誘惑を排斥し飛行機乗りの気概を以て斯業を維持するを得ず急転直下して針路を変更する者も亦た往々之れありとのことなれば君子危きに近寄らずざるに如かずである乎。

(藤井衛『東京に於ける就職と其成功 一名金儲けの秘訣』雄文館 大正5年)

 古い文体に自信のある方は是非どうぞ。僕はていねいに説明したりはしない。ま、けっこう女学生にもてたようでもある。

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