第24回 羽仁もと子と二つの雑誌


 似たような雑誌を並べてみた。左側は『家庭之友』、そして右側は『婦人之友』だ。『家庭之友』の上端には「羽仁吉一もと子編輯」と書いてあり、『婦人之友』のほうには羽仁もと子編輯となっている。で、発行日は『家庭之友』が明治41年7月3日、『婦人之友』が明治41年7月15日となっている。それで双方の編輯者に羽仁もと子の名があるというところにまずは注目してほしい。
 羽仁もと子についてはすでに『校則なんて大嫌い! 学校文化史のおきみやげ』(公益社団法人福岡県人権研究所)で「羽仁もと子 家計簿がかちとったもの」という項で紹介した。そこでこの二つの雑誌について「そして、二人で出版社を始めた。最初は『家庭之友』といい、やがて『婦人之友』と改称した雑誌を編集・発行することになったのである」と説明したのであるが、この一文は訂正させてほしい。なぜならばこの書き方はまちがっていたからである。
 まちがいというより新しい発見だった。それまで、本家本元の婦人之友社のホームページでも『婦人之友』は『家庭之友』を改題したものだと書かれているし、創業も1903(明治36)年と書いてあるからだ。
 しかし、『家庭之友』は当初内外出版協会というところから発行されていた。この出版社は婦人之友社の前身ではない。この内外出版協会というのは山縣悌三郎という人物が経営していた出版社で、そこへ羽仁もと子の夫の吉一が訪ねてきた。「妻のもと子に適当な賃仕事(ジヨブ、ウアーク。たぶんjobworkのこと)をくれないか」という頼みごとであった。で、山縣はもと子が報知新聞に書いた家庭に関する記事を見て気に入り、毎月30円の給与で新しい雑誌『家庭之友』の発行をさせたということだった。なので、編集室は山縣邸にあった内外出版協会ではなく、羽仁の私宅においたのであった。
 そうして数年が経ち、羽仁夫妻は独立したくなり、明治41年1月に家庭之友社という出版社を作って『婦人之友』を発行し、『家庭之友』は内外出版協会から発行する、編集室は何れも羽仁邸というややこしいことをしていた。そして、明治42年1月から内外出版協会から離れ『婦人之友』のほうのみを発行することにした。『家庭之友』は内外出版協会がしばらく発行し続けたが、やはり羽仁もと子のセンスは継承できず廃刊ということになったということだ。だから、『校則なんて大嫌い!』に書いた一文はそのように修正しなくてはならないことになったということである。
 ということだったが、山縣悌三郎は羽仁夫妻が離れていったことに腹を立てたわけではなく、「もともと羽仁一家のために、その生計を助けようと始めたものなので、創刊の目的は達成したのだ」(山縣悌三郎『児孫の為めに余の生涯を語る』弘隆社)と振り返っている。彼の義侠心が羽仁もと子という才能を育てたとも言えるのだろう。
 前置きが長くなったので、本題は次回に先送りした方がいいかな。1回の分量が長すぎるというご意見もあるので・・・・。

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