第5回 愛国心を鼓舞するにはさ・・・

 日本を戦争に駆り立てたのは行き過ぎた愛国心や天皇中心の国家思想だとはよく言われることである。とは言え、誰がそんなことを言ったかなどというのは確証もない。ないので議論はしない。しかし、戦前の日本の国民が信じて疑わなかった信念体系が教育勅語であったことはまちがいない。
 以前、「教育勅語は正しく読もう」という記事を「羅針盤」に書いた。その内容に加筆して拙著『校則なんて大嫌い!-学校文化史のおきみやげー』に収めたのでごらんいただきたい。そこに書いたように教育勅語は現代の「愛国者」たちにとっても難解らしいのだが(笑;愛国者なら日本語くらいちゃんと読め!)、当時の庶民にとってもとっつきやすいものではなかった。それでもこの勅語に込められた考えを国民に周知徹底することはとても重要な課題であった。
 なので、教育勅語が出るやいなや、これを唱歌にして国民に広めようとした人がいる。菟道春千代(うじ・はるちよ)といって、花の舎主人と称し、木花園とも名乗る。歌人にして雅学協会の主幹、愛国者にして反キリスト教主義者、健康食品の開発・販売者、帝国食育会機関紙『食養新聞』の主筆でもある。
 この菟道春千代なる人物が教育勅語の発布直後に『国民教育 勅語唱歌』なる冊子を上梓したのだ。教育勅語の発布は明治23年10月30日、この冊子は12月27日の発行であるから(26日となっていたものを編で27日に修正してある)、たった2ヶ月で出版したことになる。迅速も迅速、まさに発布直後に(笑)教育勅語を解釈してそれを唱歌にあつらえたのは凄いとしか言いようがない。難解な教育勅語を唱歌という馴染みやすいツールで広めようとしたのは慧眼であったと言えよう。ていうか、この菟道春千代はすでに『小学生徒運動歌』(明治19年11月)、『小学校幼稚園生徒修身運動歌』(明治20年3月)、『改良日本女子てまりうた』(明治20年2月)と子ども向けの唱歌をいくつか刊行しており、いずれも忠君愛国といった教育勅語に通ずる思想で一貫していた。(嶋田由美「菟道春千代による唱歌集編纂活動に関する研究」『大阪女子短期大学紀要』第26号 2001を参照)

 その『国民教育 勅語唱歌』の現物を見たければこちらからどうぞ。

 ということで、ちょっと長いけど紹介しよう。原文はすべてひらかなで書かれていて、今の眼で見るとかえって難解かもしれないので、漢字やかなづかいを補正したものを右側に挙げておいた。

 まずは最初の三番まで。

     原文                                  漢字・かな補正

まもれやまもれみことのり            護れや護れ教育勅語
あきつみかみとみよしすら           現御神と神葭すら
すめらみことのみゝづから            天皇の御自ら
おきてたまひしみことのり            掟賜いし教育勅語
あさなゆふなにかたりつぎ           朝な夕なに語り継ぎ
いひつぎゆきてまもりつゝ            言い継ぎゆきて護りつつ
ゆめなわすれそときのまも           夢な忘れそ時の間も

 ○                             

まもれやまもれみことのり            護れや護れ教育勅語
すめらみくにはあめつちの           皇御国は天地の
ひらけそめにしむかしより            開け初めにし昔より
きみあきらけくおみまめに            君明らけく臣まめに
そむくことなくうるはしき             背くことなく麗しき
こゝろのはなをかざしつゝ            心の花を翳しつつ
つたへきにけりながきよを           伝へ来にけり永き世を

 ○                             

まもれやまもれみことのり            護れや護れ教育勅語
きみにそむけるものあらば           君に背ける者あらば
くさむすかばねかへりみず           草生す屍顧みず
みづくかばねとみをすてゝ            水漬く屍と身を捨てて
あだをたひらげあめつちと           仇を平らげ天地と
ともにはてなきおほみよの           共に果て無き大御世の
みいづをとほくかゝやかせ           御稜威を遠く輝かせ
 いずれも「まもれやまもれみことのり」で始まる。これは「教育勅語を護ろう」という意味だ。一番では天皇自らの言葉としていただいた教育勅語をいつでも、ずっと大切にしよう、ということが歌われ、二番では、この国は君と臣(天皇と臣民)との関係で成り立っている。臣民というのは天皇に対する国民という意味だ。そして三番では天皇に刃向かう者がいれば我が身を棄てて天皇家の永続的繁栄の為に尽くすぞということである。教育勅語の核心と言うべき趣意である。
 教育勅語(手元に置いて付き合わせてみたい)で言えば最初の「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」(朕〔天皇である私〕が考えるに、私と私の子である臣民のご先祖様がこの国を造ったのは天照大神以来の神話に由来するものであり、代々の天皇は国民に深く厚く徳を植え付けてきたということである。)が一番と二番。そして、三番が「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」(国家に危機があったときには一命をなげうって尽くさなくてはならない。そして皇室の発展のために少しでも役立つようにしなければならない。)に対応している。 

 ※注;( )内の現代訳は前掲『校則なんて大嫌い!-学校文化史のおきみやげー』より

 この頃までの菟道春千代の唱歌には曲譜が付いておらず、たとえば『改良日本女子てまりうた』は「一ツトヤ~」で歌う巷間知られていた数え歌の替え歌として歌われたらしい(前掲嶋田論文)。この『国民教育 勅語唱歌』も七五調で歌われた俗謡の替え歌として歌われたのかもしれない。どんな曲だったのだろうか。

 ところで話は変わる。この菟道春千代だが、ひょんなことで新聞の投書欄に投稿している。 まずは明治20年2月3日付の大阪朝日新聞に次のような広告が出た。

     聖上 皇后宮今般当地へ御臨幸被遊候ニ付婦人奉迎ノ為メ同志者ニ告グ
    一府内在住同志ノ婦人ハ何人(藝娼妓ハ除ク)ヲ問ハズ来ル二月四日迄ニ
     住所姓名ヲ記シ高麗橋商法会議所内奉迎係ヘ申込アルベシ
    一婦人奉迎ハ洋服ノ外左ノ服装ニ限ルベシ
    一衣服ハ上衣黒紋付
    一下襲ハ色及枚数随意
    一帯絹織物
    一白襟
    一菊章ハ頭ニ挿ムベク洋服ハ胸部ノ左側ニ付スベシ

    二月二日     奉迎有志  世話掛

 何のことかというと、
 天皇皇后両陛下が大阪に来られるので、お迎えする女性の同志を募集している。ついては大阪府内の女子で志を同じくする方はどなたでも(芸者と遊女は除く)申し込んでください。ついては、こんな服装で・・・・
 という内容の広告だった。この広告について「賤の女(しずのおんな)」と称する読者から「御なじみの君へ」と題する投書があった。と言うことで、以下すでに別ブログに掲載したものの一部を加筆修正して紹介しよう。

 賤の女の言い分はこうである。この広告を出した「世話人」なる人たちはいつも宴会の時に私たちを呼び出して酒の酌をしろとか、三味線を弾けとか、踊りを舞えとかいう人たちなのにどうして今回は私たちを排除するのか。私たちが賤業だとされるのはこの国の今の姿であって、私たちは人並み以上に税金も払っている。国民として変わらないはずだ。という主張であった。標題にある「御なじみの君」とは芸者、遊女たちのまさにいつものお客さまたちなのである。

 そうしたところ、菟道春千代が2月8日の同紙寄書欄(投書欄)に「賤の女の寄書をよみて花の家のあるじ菟道春千代誌す」と意見を書いている。
 菟道春千代は「賤の女の御腹立は実に理(ことわり)ある事」として、賤の女なる投稿者に共感の意を示し、「未だ遊びの樓に登りて事もなくかゝる女中とは一度の交際だになせし事なき不粋の余とても共に其世話掛の人々の情なき御心をうらまはしく思ひまゐらする」(まだ遊郭なんかに行ったこともないし、賤の女のような女性とおつきあいをしたこともない不粋な自分ではあるが、その「世話掛」の人たちの思いやりのない考えは残念なことだと思う)と自分が芸娼妓と遊ぶことはしないという姿勢を明確にした上で、世話掛の広告を批判している。
 そして、最近は「女子改良の議論」などがあって「妓楼全廃説」が提案されていることはあるとしても、政府には廃止しにくい事情があるようだということ。とは言え、彼女たちは人並み以上の税金を納めているのだから、同じ国民ではないか。国父国母である天皇皇后にとっては同じ子ではないか。もし世話係とかいう人たちが道徳的な問題で彼女たちを排除しようというのならまずは自分の品行を改めるべきではないか。「男の風儀のよろしからざるを責め男子社会の品行を高尚して後に妓女の行を戒め玉ふてこそ物の順序とは云ふべけれ然るを其の行ひなくて時としては己れ青楼に上り酌をとらせ又時としては閨裡の伽に侍しながら事に望みて今更にかゝるへだてをなし玉ふはいといと心得がたき御心にこそ」(まずは男のよくない遊びをやめ、男社会の品行をあらため、それから芸娼妓の方々の生き方に意見するのがものの順序ではないか。そうはしないで、宴席で酌をさせ、時には遊女と寝所を共にしていながら、こういうときに差別をするのは大きなまちがいというものだ)と責め立てる。
 そして、彼女たちを「濁水の中より救ひ出して同じ清き流に同胞の睦みを結ばん事を計り玉ふてこそ同じ国民の真情を得たる者と云ふべけれ」(濁った水から救い出して自分たちと同じ清い水のなかで同胞として親しくすることが同じ国民としての誠意というものではなかろうか)と喝破していた。そこに女性の人権に対する近代的思想の萌芽を読み取ることができる、かな。
 もちろん、菟道春千代が一貫して天皇礼賛者であることはずっと変わらなかったが。





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