第4回 人を殺す感動を私たちのものに

  宗像の農民たちの感謝、宗像中学校教員の感激、そして『福岡県教育』の編集者の感動と日中戦争が始まった頃の日本の戦争に対する高揚感は理解できたかと思う。

 この宗像中学校の労働奉仕(昭和12年11月13日)の少し後であるが、11月30日の東京日日新聞に「百人斬り競争! 両少尉、早くも八十人」と題する記事が載っていた。記事には「まさに神速、快進撃。その第一線に立つ片桐部隊に『百人斬り競争』を企てた二名の青年将校がある。無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたという。」として、二人の将校が「敵」を斬った経緯が述べられた後に、「記者等が駅に行った時この二人が駅頭で会見している光景にぶつかった。」ということで、この百人斬り競争をおこなった向井、野田両少尉の談話を載せている。
 で、12月4日の大阪毎日新聞には「八十六名と六十五名 鎬をけづる大接戦! 片桐部隊の向井、野田両少尉 痛快・阿修羅の大奮戦」という見出しの記事が載り、11月6日の東京日日新聞では「“百人斬り”大接戦 勇壮!向井、野田両少尉」 という記事があり、「(南京)入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた」と経過報告が載っている。(引用は現代風に字句を修正した。以下同様)
 そして、12月13日の東京日日新聞は「百人斬り“超記録” 向井106=105野田 両少尉さらに延長戦」という見出しで、二人の並んだ写真入りの記事である。

  野田「おいおれは百五だが貴様は?」向井「おれは百六だ」……両少尉は“アハハハハ”結局いつまでにいづれが先きに百人斬ったか、これは不問。結局「じゃ、ドロンゲームとしよう、だが改めて百五十人はどうかな」とたちまち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまった。

 と、さらなる競争が始めようとおもしろおかしく語り合っている様子を伝えている。また、この二人を称えて同僚の六車少尉が「百人斬りの歌」を作り、これを野田少尉が故郷の鹿児島で講演した時に小学校の生徒が歌ったとかという話が残っている(おおむねWikipediaによる)。
 こんな歌のようだ。「百人斬りの歌
 後半は特定人物を揶揄する内容なので、無視してかまわない。それはともかく、このような歌が歌われたように「百人斬り競争」は当時の国民をして血湧き肉躍るような興奮を与えていたことはまちがいない。そして、両少尉は戦後GHQに逮捕され、中国で裁判にかけられて、死刑になっている。2人の青年将校が実際に「百人斬り競争」をしたかどうかについてはここでは論じない。
 重要なのは、この「百人斬り競争」が日本国民にとってどういう意味を持っていたか、である。野田は遺書として「日本国民に告ぐ」という文章を残している。そこに彼は「私はかつて新聞紙上に向井敏明と百人斬り競争をやったと云われる野田毅であります。自らの恥を申し上げて面目ありませんが、冗談話をして虚報の武勇伝を以て世の中をお騒がせ申し上げたことにつき衷心よりお詫び申し上げます。/『馬鹿野郎』と罵倒嘲笑されても甘受いたします。」と弁明している。
 野田は冗談話を新聞記者が「虚報の武勇伝」にしたことが世の中を騒がせたとわびているのである。この世の中を騒がせたというのはこの冗談に始まる虚「報」を読んだ国民が大いに盛り上がったということであろう。戦意が昂揚したと言えばいいのかもしれない。東京日日新聞(+大阪毎日)が三度、四度とこの競争の経緯を報じたことは、まるでゲームでも楽しんでいるかのようである。そして、東京日日新聞だけがこの「百人斬り競争」を報じていた。要は特定のメディアによって振りまかれた逸話であったし、冗談で人殺しをゲームにできる感覚が東京日日新聞にあり、その感覚を受け入れる雰囲気が読者にあったということである。
 また、12月6日に途中経過を報じていた同じ紙面に「『伏せ』は“辷り込み” “兜斬り少尉”殿 二つ綽名の原田少尉」という記事があった。このひとつの“兜斬り少尉”のニックネームは「小手先が狂つて鉄兜の真中に斬りつけてやつた「支那兵兜ごと頭蓋骨が真二つになつて即死してゐた」というところから付けられたという逸話が本人の談話として紹介される。
 他の日をとっても、たとえば9月2日の当該紙面では「四十人まで数へたが 後は覚えぬ千人斬り 主君・和知部隊の夜襲」という見出しで、こちらは「千人斬り」を豪語する記事である。「伝家の宝刀を振り翳して手当り次第に斬りまくも三十余名の敵を斬倒し、○○准尉は四十人まで数えて斬ったが後は覚えないという猛烈さであった」と信じられないくらいの闘いぶりを報じ、「部隊長は泰然として微動だもせず悠々刀を杖つきつつ煙草を燻らせて指揮を続けた」とどこかの英雄物語でも語っているかのようであった。そのような記事をおもしろおかしく載せる紙面を構成していたのである。
 東京日日新聞には「百人斬り競争」同様戦闘中の人殺しのエピソードを愉快に紹介する紙面であったことがわかるだろう。そして、いわゆる一面の戦況速報ではなくこちらの紙面はスポーツ欄の次にくる紙面であり、まさに読者もスポーツ欄の延長のように戦争(=人殺し)の逸話が読んでいったのである。まさに西日本新聞のスポーツ欄を読んでホークスの闘いに一喜一憂するが如く、他紙には書いていない日本軍快進撃(=大量殺人)のエピソードに胸躍らせていたのである。
 戦争を起こすのは誰か。政治家かもしれない。曖昧にぼやかせば国家権力と言うこともできるだろう。しかし、それに乗じたのは国民の熱狂である。根拠のない取材にもとづいた記事を喜び、そこに登場する実名の兵士たちをヒーローにしていったのは東京日日新聞といったメディアであるが、それを受け入れた国民もまた共犯者であった。というより、国民が喜ぶようにメディアが過激化していったと言ってもいい。
 一億総懺悔でもしろと言うのではない。その程度の情報が読み解けず、そのような人殺しの情報に喝采を送った国民はいかにして作られたかが問題なのである。国家非常時に際してメディアは嘘をつく。嘘でなくとも偏っていく。今の国際世論はウクライナ側に立って戦況が報じられている。それは先ほども触れたが、まさに新聞のスポーツ欄に似ている。西日本新聞と讀賣新聞のスポーツ欄を見れば一目瞭然である。我がホークスの活躍に関心が集まる紙面、巨人軍が日本のプロ野球そのものだという紙面、読者の眼はそういう情報に曇らされていく。
 プロ野球如きと比べるものではないが、プロ野球情報のように郷土愛ならぬ愛国心に粉飾された、いや判官贔屓の同情心に粉飾された肩入れを為してはいないだろうか。そのとき人の命は見えなくなる。重要なのは戦争に勝つことではない。戦争をしないことである。戦争をしなければ誰も死なない。そのためには誰が悪かったか、はたまた誰が悪いのかという断罪をしてよしとするのではなく、膨大で多様な情報を読み解く力、ナショナリズムやヒューマニズムの昂揚感の中で冷静になる力、そうしたものを培うのが平和教育ではないか。
 歴史に学ぶというのは過去を断罪することではない。「百人斬り競争」の逸話から日本軍は残虐だったとか、メディアは非道い報道をしたものだとか、軍部の暴走を非難するとかではない。逆に日本軍の蛮行を庇ったり、臭い物に蓋をするように史実を都合よく書き換えることでもない。如何にしたら過去のような道を歩まずにすむかを考えることである。 少なくとも日本は大陸と太平洋上で戦争をしてしまった過去がある。どうしたらもう戦争に加担しないで済むか。言い換えれば人を殺さずにすむか、殺されずにすむか。それが平和教育に期待される使命である。そのためにはどういう場面で、どういう力を育むことが必要なのだろうか。

 ところで、ロシア軍の敗北を期待している人はいませんか。それは多くのロシア人の死を喜ぼうとしていることなのです。

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