◎「羅針盤PARTⅡ」は旬刊とします。 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ 5月 08, 2022 「羅針盤PARTⅡ」を取り敢えず3回目まで書いた。4月18日、28日、そして5月8日にアップしたことになる。ここまでは試行期間であったと言っていい。ここまで来たからにはこのペースを維持したい。つまりは10日に1回のペースで書きますよという宣言だ。 毎月8の日を締切にして書きます。9の日の朝には読めます、という宣言です。なので9の日の朝を楽しみにしてください。僕もがんばります。 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ コメント
第25回 してはならぬ二十箇条 1月 06, 2024 またまた二つの雑誌を並べてみた。ほんとうは貴重な史料なのでこんなふうに開いて痛めるリスクを与えたくはないのだが、現物を見てもらうには、ま、致し方ないというところかな。ということで、本題に入ります。 これは前回紹介した両誌の明治41年7月に発行した号のそれぞれのとある頁である。『家庭之友』には「母親のしてはならぬ事(二十四ヶ条)」、そして『婦人之友』には「主人のしてはならぬ事(二十箇条)」というよく似た記事が載っているのだ。二誌を並行して編輯・発行していた羽仁もと子ならではのお遊びとも思えるので、こちらも遊んでみたい。 まずは左側の『家庭之友』の「母親のしてはならぬ事(二十四ヶ条)」という記事である。写真では見にくいだろうから、以下に記事を転載する。仮名遣いなどは最小限ではあるが、現代風に改めておいた。 ************************************** 母親のしてはならぬ事(二十ヶ条) 一、子供の中のある一人を偏り愛してはならぬ事。 二、少しぐらい言うことを聴かぬとて、いちいち子供を責めたててはならぬ事。 三、愛を含んで厳格にするのはよいけれど、ガミガミと小言をいってはならぬ事。 四、何故にその事の悪いかを教えずに、一方的に子供をおどしつけてはならぬ事。 五、早速に実行の出来ないことを子供に約束してはならぬ事。 六、子供を召使のみ任せて置いてはならぬ事。 七、子供を驚かすようなことをしてはならぬ事。 八、子供を叱り、または懲らしめる場合に、怒りを以てしてはならぬ事。 九、同じく子供を叱り、または懲らしめる場合に子供を辱(はずかし)めてはならぬ事。 十、喰い過ぎをさせてはならぬ事。 十一、子供のいろいろな質問に対して、飽きたり五月蠅(うるさ)がったりしてはならぬ事。 十二、子供の自信を傷つけるようなことをしてはならぬ事。出来るだけ自信を養わせるように勇気づけてやらねばならぬ事。 十三、子供がなにかしようとする時に、それを貶(けな)したり妨げたりしてはならぬ事。むしろどうしたらそれを能くすることが出来るかについて教え導いてやらねばならぬ事。 十四、子供の教育に関して、みだりに父親の意見にさからってはならぬ事。 十五、太陽の光、新鮮なる空気の中に、子供を出すことを忘れてはならぬ事。 十六、子供が日に焼けるのを恐れてはならぬ 続きを読む
第22回 『破戒』を見よう 8月 16, 2023 昨年、60年ぶりで島崎藤村の『破戒』が映画化された。全国水平社百周年を記念しての制作であり、昨年の3月3日、全国水平社創設の地である京都の元岡崎公会堂での記念式典で上映されたのを見た。ついで、一般公開に際して、人権研究所が販売したチケットを購入して家族と見に行った。そうしたら突然、宗像市から市が人権映画として上映するので解説をしてくれという話が舞い込んだ。そういうわけで当実用に作ったのが次の文章だ。 で、ここに書かなかったことから。映画では主人公の瀬川丑松は何年生の担任だったか。映画を見る限り、現在の小学校高学年程度に見えたのではないかと思う。時代設定は1904(明治37)年である。学校制度としては尋常科4年高等科4年であり、尋常科4年が義務教育であった。そして高等科4年卒業後中学校に進むという制度だった。しかし、明治40年から義務教育は6年に延長され、尋常科6年(義務教育)と高等科2年で、尋常科6年卒業後中学校進学ということになり、高等科はいわゆる袋小路の課程となって、中学校進学を予定しないコースとなった。 原作ではこの小学校は尋常高等小学校であって、瀬川丑松は高等科4年の担任である。なので、あの子どもたちに出自を告白する場面で、 「皆さんも最早十五六――満更世情を知らないといふ年でも有ません。何卒私のいふことを克く記臆えて置いて下さい。」 と丑松に言わしめている。高等科4年は現在で言えば、中学二年生である。当時は一般的に数え年でいうので、4月に高等科2年に進級したのはその年の正月に数え年15歳になった子どもである(早生まれは14歳)。 丑松の告白は12月のことであり、「最早十五六」と言ったのはまもなく十五六になるぞ、という意味である。「最早」には「もう」とルビが振ってあるのはそういうことだ。そのくらいのオトナなので、丑松は深刻な自分の出自問題を告白することにしたのである。 映画を見るときは丑松が担任する子どもたちを現在の中学2年の少年であることと、当時のこの年齢の少年たちは今の子どもたちよりもオトナであったことも踏まえた上で見てほしい。それはともかく上述の解説文に書いておいたのだが、藤村の『破戒』はしばしば誹謗の対象とされてきた。『水平新聞』掲載の「第一五回大会報告」に井元麟之による緊急動議が掲載されている。 ・・・・この作品は(『破戒』)、申す迄もな 続きを読む
第23回 校則を無くしたらどうなるの? 11月 27, 2023 福岡県人権研究所の機関誌『リベラシオン』191号は「人権教育の地平」というのが大きな特集になっていて、巻頭に「人権・同和教育のこれから」という文章を書かせてもらった。ていうか、このタイトルで特集をする条件として理事長がなんか書けというのが編集担当理事からの命令であった。で、書き出したらけっこう長くなってしまい、「長すぎる」という意見もいくつか頂戴してしまった。 学校現場では人権・同和教育をやってきたベテラン教員と新採用の若手教員の間の溝が大きすぎるので、同和教育の成果が継承されていないというような意見もあるようだ。だけど、そんなことはない。すでに同和教育が始まって(福岡市長選挙差別事件〔1956年〕を起点とすれば)20年も過ぎた頃には同和教育は形骸化していたという自覚があったらしい。取り立てて誰かに責任を押しつけるわけではないが、僕が同和教育に首を突っ込んだ1990年代初めは形骸化もだいぶ進んでいたということになるが、そんなふうには感じなかった。「人権教育のための国連10年」というものが降りてきて、同和教育は人権教育という無味無色のものに取り込まれてしまうのではないかという危機感があたりを染め始めていた記憶がある。見方によれば、それだけ「同和教育」なるものには存在感があったということになる。 しかし、まもなく同和教育のある時期のリーダー的存在だった東上高志氏が1996年に『同和教育の終わり』なる本を出し、同和教育は役割を終了したかのような宣言をしていた。一方、同和教育にこだわる側とても「人権教育」を否定することはできない。かと言って、同和教育を人権教育の中に埋没させていくのは今までの努力が水泡に帰するかのような不安があったのではないかと思われる。実際僕もそう感じていた。それを引き摺ってか、僕を代表にして毎年開催している宗像エリアでの人権・同和教育の集いは宗像地区「同和」教育研究集会とカッコ付きの「同和」教育を使っている。 それはともかく、「同和」教育の歴史を振り返ってみると、先達の仕事はすばらしかった。一つ挙げてみよう。「今日も机にあの子がいない」という合言葉で学校に出てこない子どものところに通い続けた先生たちが部落差別という子どもの現実を見つけ出した。いわゆる「差別の現実に学ぶ」という原則だ。そして同和教育の大先輩である堀内忠氏は「部落差別の現実に深く学ぶ 続きを読む
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