第10回 女教員ですが、何か問題でも?

  第6回に大正11年に流行った『職業婦人の歌』を紹介したが、その中で女教員はいい仕事のように歌われていた。しかし、女教員の世界はそう甘いものではなかった。

 日本の教員養成を制度的に確立したのは明治19年の師範学校令であった。これを作ったのは最初の文部大臣森有礼。森は東京高等女学校の卒業式でこんな挨拶をして、女子教育の重要性を説きつつ、女性は天然の教師なのだと持ち上げた。
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そもそも国家は男女でできている。だから国家の教育は半分は女子の教育だ。・・・・教育の大切さを考えれば女子教育は男子教育よりも重要だ。なぜなら賢い女子でなければ、賢くてやさしい母親にはなれない。ということなので、人間を賢くするも愚かにするもまずはいい母親を育てるかどうかにかかっている。女子は実に天然の教師なのだ。生まれながらの教師である女子の教育が充分でないうちは教育がうまくいかないのは当然のことである。
                       (原文を現代語風に訳してみた)
   森有礼「東京高等女学校卒業詔書授与式における演説」(明治21年7月12日)
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 そして、職業人としての女教員を養成するための師範学校(教員養成の学校)も各府県に作らせた。当初は師範学校女子部であり、やがて女子師範学校になったものも多い。女性教員を積極的に育成しようということであった。高学歴女子の生産である。「女は意見を言うな、ひたすら従え」と教えた『女大学』の時代〔新谷恭明『校則なんて大嫌い! 学校文化史のおきみやげ』61-63頁を参照してください〕にはあり得ない賢い女性像である。そして教師としての資質は生まれながらに女子には備わっているという文脈で過剰に期待していた。これもまた現代風に言えばジェンダーの押しつけみたいなものなのだが、時の文部大臣がそれだけ女性を高く買っていたことは教育史的にはだいじなことである。心に留めておいていい。
 にもかかわらず、女性にとってその敷居(ハードル)は高かった。まずは女教員に対する世間のまなざしである。その頃の新聞をひっくり返してみても女教員に関する記事はそう多くはない。学校教育には遠い庶民にとってさほどの関心事ではなかったのかもしれない。その中で、明治25年10月25日の讀賣新聞に校長が女教員を強姦しようとした事件が横浜地裁において証拠不十分で免訴となったという記事が載っている。まずは性的好奇の対象として読者の興味をそそっていたようだ。と、同時に学校の密室性が想像される。
 明治31年6月18日の朝日新聞には、宮城県の小学校の教員が裁縫女教員と関係を持ち妊娠させてしまったことが村人の耳に入り顰蹙を買ったが、そうした声を振り払って校長が仲人になろうとしたことが載っている。学校世間とはちがうところだという認識なのだろう。
 なので、新潟県のある高等小学校の女教員は宴会のたびに三味線を弾いたり、かっぽれを踊ったりして、まるで芸者の代わりを演じており、しかも、同じ学校の教員2人を「情夫」にして相当の金銭を吸い上げていたこと〔明治32年3月6日朝日新聞〕、福井県の高等小学校では男女教員と女生徒男生徒が手に手を取って舞踏し、卑猥な唄を歌っていたということ〔明治32年7月28日朝日新聞〕が報ぜられている。いずれも男女が一緒に宴会をしたり、ダンスを踊ったりという文化が理解できない読者に向けて記者がおもしろく作文したものだと思われる。また、明治36年11月1日の讀賣新聞には夫のある函館の女教員が病気保養のために上京したが、病気が治ったはずなのに帰ってこない。それで調べたら、他の男と親しくなってどこかに姿を消したということで捜索願を出したとかいう事件が興味本位で扱われている。
 学校というのはおそらく当時まれに見る男女の入り交じった職場であったのではないだろうか。それ故に様々な憶測が、それも女教員の素行に焦点をあてた好奇な目で書いた記事ばかりが出てくるのだろう。当時の女性教員にはある種のバイアスのかかったまなざしが向けられており、それが当時の女教員の風評を形作るものであったと言っていい。それは教員社会では女性の能力を決して高くは位置づけない、という世間の眼である。
 おりしも明治37年1月の『福岡県教育会々報』に女教員に関わるいくつかの記事が載っていた。一つは「教育は男女教師の協力に依らざる可からず」という論説で、福岡師範学校長の園田定太郎が企救郡の支会で行った演説を起こしたものである。園田は家庭の教育が父母が相協力して行われるように、学校もまた男女の教師が力を合わせて行うべきだということについて、特異な考えを展開している。家庭教育が父母の協力で行われるべきという考えは当時としては最新の考えである。「家庭」という概念そのものがようやく世間に広まりつつある時期なので、さすがに師範学校長である。最新の考えは踏まえた上で独自の理論を主張していた。その内容はどうでもいい理論なのでここではそれ以上突っ込まない。確認しておきたいのは家庭という概念がようやく定着し始めたこと、内容はともかく家庭では父母の協力というのも最新の考えとして理解されはじめた時期であったということである。
 もう一つは、こちらがだいじなのだが、「雑録」という中に「思潮一班」というコーナーがあって、いろいろな雑誌からの記事がつまみ食い的にちまちまと数行の転載がなされている。その中に「女子教育家諸君に望む」(躬行会雑誌)と「女子教育の意義と婦人の立場」(九州教育雑誌)という二つの文章が転載されている。『躬行会雑誌』(注※)からの記事は良妻賢母を養成するのが女子教育の目的なのに現在の女子教育は女生徒を一生独身で通すような「偏頗なる女壮士的の女流」を生み出すか、実業を嫌う非生産的な婦女子を育てる傾向がある。この過ちをただして夫を補佐し、実業に貢献する婦女子を育てて欲しい。というものである。一方、『九州教育雑誌』から転載の文章は女子は妻となり、母となるだけではなく、社会国家に対する興味と責務を持たせるべきである。これまでの教育が母妻教育の狭い意味に閉じ込められていたので、もう少し広げて人類として、社会の一員として事業に従事できるよう、そして男に頼らず独立生活ができるようにしてやることが国家富強にとっても、女子の地位向上にとっても重要だ、という趣旨である。同じ女子教育でも意見にはずいぶんと隔たりがあったのだ。
 そんなことで20世紀初頭、女子教育についての最新の考え方は急速に前進していたとみてよいが、女教員に対する偏見は増幅していたとみていいのかもしれない。で、女教員にはどういう資質が期待されていたのだろう。「男を補佐」なのか「男に頼らず」なのか。はたまた「芸者の代理」なのか。




※躬行会は華族の団体で、目的は中堅以上の国民(上層階級)の道徳の普及をはかるという団体であった。
 

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