第11回 女教員ですが、問題ってそれですか?

 ちょっと、間が空いたかな。暑さと精神的不調とコロナ禍の所為もあったけれど、ちょいと史料調べと分析にも時間がかかったりして。

 もう少し明治期の女教員についての風評やメディアの見解を見てみよう。
 明治33(1900)年5月9日の朝日新聞には「盛装の女教員」と題して「函館のある小学校の女教員某は毎日きれいな服を着て出勤し、授業中も化粧道具を取り出して化粧を直す。なので女生徒たちは親におしろいを買ってくれと言って収まらない(新谷による現代語訳)」というような記事が出てくる。チャラチャラした女教員というのは困ったものだという揶揄がたっぷり含まれた記事だ。この背景には女教員を増やしていかなくてはならない事情がある。
 ちょいと数字が並ぶので恐縮だが、明治中頃の義務教育の就学率について見てみたい。森有礼文相によって小学校令が制定されて、義務教育制度が始まったのが明治19(1886)年。この頃は義務教育は4年であったが、明治20年の段階で就学率は45.00%でしかなかった。然るにその内実は男60.31%、女28.26%であった。なんとこの男女格差を見て欲しい。女子は学ばなくてよろしいとする近世の教育観がまだまだ支配的であったということだろう。義務教育であるにも拘わらず女子は半分以下が学校に通っていなかったということだ。
 それが10年後の明治30(1897)年には、66.65%(男80.67%、女50.86%)にあがってきた。当時の規則では女子だけで一学級編制できる人数がいれば男女別学級にしなければならないということになっていた。そうすると女子だけの学級を作らなくてはならなくなるし、それを担当する女教員のニーズが増えるということになる。
 さらに明治32年には72.75%(男85.06%、女59.04%)となる。女子の伸びに勢いがついてきたことに注目して欲しい。女子については、明治33年71.73%、明治34年81.80%、明治35年87.00%と鰻登りで数値が急上昇し、明治40(1907)年には97.38%(男98.53%、女96.14%)とほぼみんな学校に行くようになる★。言い換えると、この10年ほどの間に女子の修学が男子に追いついてきたということだ。
 森が作った小学校令は明治23年と明治33年に改正されているが、明治33年の改正は将来的に義務教育を6年に延長することを意識して策定された。だから、急速な改正段階で数値の伸びは想定されていたのではないかな(義務教育が6年に延長となったのは明治41年)。
 そういうことを念頭に置いて、明治28年のこと。女子の教育が注視され始めた頃であった。帝国教育大会というイベントが京都で開催された。第四回内国勧業博覧会なるものが京都で開催されたので、おりしも日清戦争に勝ったというところで、右肩上がりの日本としては国力を顕示するためにも教育でもなんか大きなイベントをやろうというノリで企画したものだった。企画したのは京都府教育会。教育会というのは教育関係者の団体であって地域ごとにそれぞれの事情で作られていた。で、京都府教育会が博覧会にかこつけて全国の地方教育会に声をかけて各地の教育関係者に京都に集まって貰い、今後の教育について議論しようというものであった。だから総裁に山階宮晃親王、名誉会員に西園寺公望、会長に渡邊千秋京都府知事を奉るという大仰な行事とした。5月23日、開会の午前8時には会場の京都市議事堂にはなんと2500~2600人の参加者が集まったというのだ。京都市のHPによると、この議事堂もこの年3月に竣工したばかりの敷地2,800坪/建坪300坪/構造 木造2階建ての建築物だが、議事堂の収容力はわからない。わからないけど、建坪300坪の議事堂に2,500人は入りそうにない。そうすると2,800坪の敷地も参加者で埋まったのだろうか。マイクが使われていない時代だ。ちゃんと弁士の声が会衆の耳に届いたのか、僕にはわからない。
 大会のことはどうでもいいのだが、この大会ではいくつかの部門(分科会)が設けられていた。その中の初等教育部門会で行われた議論の中に女教員に関して議論が二件あったのだ。その当時何をどういう観点で問題にしようとしたのかを推察するにはいい材料だと思う。会場は同じ議事堂で参加者は800人。
 で、出てきた議論というのは「尋常小学校一年二年の教育は男女どっちの教員の方が効果が多いか」(京都府教育会提出)という問題と「女教員採用を奨励する必要があるかどうか」(山形学事会提出)という二つの問題であった。どちらも女教員の資質を問う議題であったと言える。
 まずは小学校1年2年の教育は男女どっちがいいか、という現在では言っている意味のよくわからない議題である。まずは「女子がいい」という意見が出た。「子どもは家で母親の手で育てられる。だから最初の先生が女教員だと子どもは馴染みやすい。だから女教員でなければならない。反対するのは『教育上の罪人』だ。反対しない方がいい。」というような意見だった。
 それに対して「男教員がいい」と手を挙げたのは佐賀県の教員だった。彼の経験上、「男が教育した子は活溌で、女が教育した子は柔弱だ。教育は男に限る」という今はもう誰も口にしない九州男児丸出しの意見であった。そこに「いや、1年は女教員、2年から男教員にしよう」という「仲裁説」を取るものが出る。ところが、男教員がいいというもう一つの理由が出てきた。「女教員は愛情深いというけれど、一学級70から90人のわんぱくな子どもを相手に愛情もへったくれもない。愛情より管理が大切なのだが、女教員は管理の術が不得手だから、男に限る」というものだった。
 そうしたところに、この問題を撤回せよという意見が出た。「男でも管理の下手なのはいるし、女でも上手なのはいる。それは個人の問題だし、校長の裁量で決めればいいことだ。しかも、このテーマの出し方は1、2年生に限って女教員がいいかどうかという議論であって、3、4年以上だと女教員は不適当だという思い込みがあるのではないか。女教員はきちんと師範学校で養成するべきであって、そうすれば問題は無い。こんな議論をするのはこれからの師範教育を妨げるものでしかない。ここで議論することではない、撤回せよ!」という今から見ればかなりまっとうな意見だった。
 ということで、まずはこの撤回説から議決したが、これは少数否決された。次いで1、2年生の担当は女教員がいいという説の決を採ったが、これも少数と否決された。しかし、この意見をなした奈良県の冨田蔟次郎は「いや自分で言うのもなんだが、見たところ多数だと思う」と採決に異を唱えた。それであらためてかぞえなおしてはみたものの、やはり少数だったようだ。残念!800人の参加者がいたからおそらく過半数と見まごうほどかなり多くの賛成者はいたのだろう。で、男教員がいいとか、女は1年だけという意見も、みんな少数ですべて否決されてしまった。
 こうした議論を見れば、女教員に対する先入観というか、固定観念というものがすごく強かったことがわかる。女は愛情があるが管理能力がない。初年次生の相手なら出来るが、上級生には無理だろう、というのが暗黙の常識としてあったことがわかる。
「いや、それは個人差だ」という意見があっても、ほぼ黙殺される感があったのではないだろうか。
 で、次に「女教員採用を奨励する必要があるかどうか」という議題について説明したい。こちらは山形学事会からの提出議題だった。で、その趣旨は「先ほど一二年生の教育には女教員がいいと決議されたように一概に男教員がいいとは言えない。ならばもっと女教員を採用するのがいいと思う。まず、女教員は薄給なので人件費が安い。さらに日本は植民地を持つようになり、外国人の内地雑居も始まる。そうすると男子の仕事というものも増える。で、女教員にも男よりすぐれた点があるので、この際、女教員を増やすのは好都合だ」という今思えばなんとも珍妙な趣旨説明である。まずは当時の女教員の給与が安かったことを前提に問題を考えている。そして「女教員にもいい所はあるので、男の穴埋めには使える」という趣旨の主張になっているのだ。
 こうした提案に対して「女教員の採用を奨励する必要はない」という意見が出た。「女は柔で、男は剛毅だ。剛毅の性質が生徒の歪んだ性質を直す。女は感情的で甘やかすので管理が下手だ」という力でおさえる見解で最近でも見かけないわけではない。さらに彼は「さっき占領地の仕事が増えれば女教員を増やせばいいと言った人がいたが、それは教育のために悲しむべきことだ。日本の教育は日本魂を養成することであって、『男子が満腔の熱血を絞って』する仕事だから女には任せられない」と言ってのけた。
 これに対して女教員奨励に賛成する意見は「女子の就学が問題で、そのために女教員を増やさねばならない。男と同じ効果は期待できないにしても、女教員ならではの効果もある。そう考えて女教員を増やさないとみっともないことになる」とこちらは女子の就学率の向上を狙いとしていた。そうしたら提出者の山形の委員は「私も女教員には女子を教育して貰うという今の意見に賛成なのです」と便乗して、こちらは採用奨励ということに議は決した。しかし、女教員の能力へのステレオタイプな偏見は根強かった。
 で、だ。かつて『女大学』の女性観★★が当然だった時代からまだそんなに時間は経っていない。でも、新しい女性観もはいってきていた。森有礼などもそうした考えを持ち始めた人物だったのだが、いかんせん教育現場はそうはなっていなかったということである。まさに男社会、いや、社会が男という人間観が満ちていた。
 にもかかわらず、ここで出てきた意見の中にチラリと見えたように女性を一個の個人として見る人間観もあることはあった。しかし、ここで出てきたステレオタイプな女性観は長くごく最近まで学校の中にもあったことを僕は体験している。たぶん若い世代ではずいぶんと変わっているであろうと信じたい。
 


★ 当時、学校に籍は置いていても実際には通学してこない子どもたちがいるので7~13ポイントこれらの数値から割り引く必要はある。※安川寿之輔「義務教育就学の史的分析」(教育史学会紀要『日本の教育史学』7 1964)
★★ 『女大学』は江戸時代に読まれた女性向けの教訓書。概要については『校則なんて大嫌い! 学校文化史のおきみやげ』のなかで、「Ⅱ 女の生き方」で触れている。ぜひ読んで欲しい。

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