第13回 亡国の祝詞(その1)

◎しばらくお休みしていました。何故かというと、どうしてもまとめなくてはならない研究報告の準備があったので、それに集中しなくてはいけなくて『羅針盤Ⅱ』はお休み、でした。
 その「しばらく」の間にむかし集めた史料を見直していたらおもしろいものを掘り出したので、予定していたネタは取り下げて、こちらを紹介することにします。史料を長々と引用するけれど、それは時代の雰囲気を味わってもらうためで、その後に噛み砕いて解説した文を綴っていくので、そちらを見るだけでいいです。


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 まず見てもらいたいのは、明治19年8月1日付の福岡日日新聞の「福岡中学校卒業証書授与式」という記事である。福岡日日新聞は現在の西日本新聞の前身の一つになる。冒頭部分を紹介しよう。

昨卅一日午前同校にて執行せられ加藤校長は高等科卒業生十名初等科卒業生三十九名へ卒業証書を授与したり本日臨場の諸氏は安場知事、須田師範校長、隈本修猷館長、学務課員も師範校員、新聞記者幷に本校教員悉皆及本校生徒各級十人宛なり

 昨日、つまり7月31日に福岡中学校で卒業証書授与式があった。卒業生は高等科10名、初等科39名に過ぎない。そのために県知事も出席しているし、師範学校の校長と教員、修猷館の校長、県庁学務課の職員、新聞記者が来賓として出席している、という内容である。
 修猷館の校長は隈本有尚という人物で、後に哲学館事件(注①)という大事件のきっかけを作った文部省視学官になったりする有名人である。このときの福岡中学校は後の福岡高等学校に繋がる福岡中学校ではなくて、強いて言えば、後の修猷館高等学校に繋がる学校だ。ややこしいけど、このときの修猷館は中学校ではなく、英語専修校という特別の学校だった。細かいことは昔書いた僕の本を読んでくれればいい(注②)。たぶんまだ在庫はあるはずだ。
 で、卒業式は「万般サラ々々として行はれ会衆に倦厭を来さしむることなかりしは該校の注意誠にたりき識字の後来賓幷に本校職員及び高等科卒業生は別室にて饗応せられたり」とある。式は順調に終わり、その後高等科の卒業生は来賓と職員とともに宴会をしたのである。宴会は大切なことで、これから社会人のとして指導的立場で活躍していく若者に社交界でのマナーを身につけさせるという意味でお偉いさんと食事を共にさせるというイベントなのである。たとえば、東京大学では卒業生にフランス料理を振る舞ったと記録されている。この人たちは国際的に活躍していかなければならないエリートであったからである。で、ここでの饗応はその福岡版と考えていいだろう。
 ところで、この日の加藤常七郎校長の祝詞もこの日の福岡日日新聞にしっかり掲載されている。その一部を以下に紹介しよう。

・・・次ニ卒業生諸子ニ一言ス諸子今日ノ栄アル所以ノ者固ヨリ職員訓督ノ力厚キニ由ルト雖トモ又諸子数年間勉励檢認シ能ク校則ヲ遵守シ品行ヲ慎ミタルニ由ラズンバアラズ蓋シ是レ今日特ニ諸子ノ為メニ祝賀スベキコトナリ然レトモ諸子ハ唯普通学ヲ修メタルノミナレバ帝国大学陸軍士官学校海軍兵学校及農林商業職工師範等ノ諸学校卒業生トハ大ニ異ナル所アリ即チ諸子ハ是レヨリ始メテ目的ヲ確定シ或ハ尚進ンテ高等専門学校ニ入リ或ハ故郷ニ帰リ父兄ノ産ヲ継キ若クハ其他ノ業ニ従事シ後日国家有益ノ良民トナランコト希望スル所ナリ
再ビ諸子ニ一言ス余ハ固ク信シテ疑ハズ諸子ハ世ノ風潮ノ下ニ立チ政談政党等ノコトニ貴重ナル時間ヲ費シ以テ国ノ安寧幸福ヲ増進スルコトナク返テ徒ニ自己ヲ損スル如キ軽躁無慮ノコト必ズナカルベシ諸子ヨ諸子ニ本校ヲ去ルノ後ハ宜シク自重自愛シ余ノ固ク信ズル所ヲ証シ余ノ切ニ望ム所ヲ満タシメ以テ倍本校幷諸子ノ光栄ヲ輝カサシメンコトヲ勉メヨヤ勉メヨ

 贈る言葉としてどんなことを卒業生たちに言ったかというと、まず、「今日無事卒業の日を迎えられたのは先生方の教えのおかげだ。そして、君たちもよく勉強し、校則を守り、品行を慎んだからである。とはいえ、まだ君たちは普通教育を受けただけにすぎない。これから上級の学校に進んだり、家業を継いだり、就職したりして将来『国家有益の良民』になってもらいたい。」と言う。説教好きの人間にありがちな物言いだ。「君らはまだまだ未熟だから」という上からの目線で入ってくる。そして「国家有益の良民」なる価値観ていうか、国民観を押し付けてくるのだ。まあ、そういう傾向は今でもこうした式典ではよく聞く挨拶だ。
 そして、あらためて彼の期待を生徒たちに要求する。「君たちはこれから上級学校に進んでいろいろ勉強することがある。だから政治の話や政党のことなど政治にかかわるようなことで貴重な時間を無駄にして、国のためにもならず、自分のためにもならない軽薄な行動を取ってはならない。卒業したら自重自愛して私の思うような人間〔国家有益の良民〕になって、本校の名を高めるようにがんばろう。」というようなことを言ったのだ。
 この祝詞が思わぬ波紋を呼んだ。スピーチから4ヶ月も経ったこの年の十二月に開催された福岡県会で山門郡選出の立花親信議員は次のような意見を述べた。

・・・現今ノ校長ガ彼ノ卒業証授与式ニ当テ演舌シタル政談政党ノ事ニ貴重ナル時間ヲ費ヤスカ如キ軽躁浮薄ノコトヲナスヘカラスト云フニ至テハ実ニ本員等ノ疑ヲ生スルノミナラス甚ダ奇怪ノ言ト思フ本員等ハ屹度将来国家ヲ憂ヒ政談等ハ進ンテナサヽルヘカラスト信ズルナリ

 元柳河藩の重役の末裔でもある立花議員は「この校長の演説は自分には疑問どころか奇怪なものだと思う。すぐれた卒業生たちはきっと国家を憂い、政治的発言などには積極的にかかわるに違いないと私たちは信じている」と発言した。生徒たちが主権者として政治に関わっていく存在になることを信じていると明言したのである。
 さらに民権派と目されていた夜須郡選出の多田作兵衛議員は次のような意見を重ねた。

本員ハ彼ノ校長ノ演舌ニ付テハ実以テ痛嘆ニ堪ヘサル次第ニテ県下ノ子弟ヲ誤ラシムルモノト思フ然レトモ之レハ只タ一校長ト番外トノ意ノミニシテ政府ノ主旨此ニアラザルハ人ノ知ル処ナリ故ニ校長ヲ選択シテ生徒ノ方向ヲ誤ラシメザラント欲ス若シ知事ニシテ之レヲ採用サセルトキハ来年ノ県会アレバ之ヲ全廃スルモ能ハザルニアラズ・・・

 多田議員は「自分はあの校長の演舌は実に情けないものであって、県下の子弟の道を誤らせるものだと思う。とは言え、あの内容は一人の校長と番外(校長をかばう答弁をした学務課長)だけの考えで、(人材を求めている)政府はそうは考えていない。だから校長を変えて生徒が道を誤らないようにしてもらいたい。知事がそれをしないなら、来年の県会では中学校を全廃することになるだろう。」と知事に迫った。
 この日の議論は中学校費の問題であった。議論の前提に中学校令の制定という国の政策があった。この年の4月に森有礼文相は中学校令という法律が制定し、中学校の制度を根本から改めることにしたのである。中学校はそれまで各府県でそれなりに設置・運営してきたけれど、その教育の質を確保するために中学校を高等中学校と尋常中学校に分け、高等中学校は国が設置し、尋常中学校は各府県に一校だけ設置を認めるというものであった。
 この年、福岡県では福岡、久留米、豊津に県立中学校を持っていた。いずれも元は大藩の藩都であり、豊津藩に至っては藩校のかたちを変えてここまで中学校として維持してきたのである。それを一校に絞らなければならなくなった。それぞれの旧藩のメンツにかけて当時の最高学府である県立中学校を自分たちの藩都に置きたかった。しかし、国の制度によってどれか一校にするとなるとそれは真ん中にある福岡だろうということになる。そうすると、そこでどういう人物を育てるのかということも重要なテーマとなってくるのである。
 だから、唯一残されることになる福岡中学校の校長の発言は大きな意味を持っていたのだ。議員たちが口にしている「全廃」というのはその中学校費をすべて廃する、つまり福岡中学校の存続を認めないという見解であり、それは大きな勢力でもあったのである。そして、この議論はさらに一年後に蒸し返される。


注① 哲学館事件とは現在の東洋大学の前身である哲学館で起きた事件で、私立学校の管理問題とか、学問の自由とかを問われる歴史的事件である。哲学館は著名な哲学者井上円了の設立した専門学校であった。明治35(1902)年10月25日から31日にかけて卒業試験を実施したのだが、この時文部省視学官として隈本有尚と隈本繁吉(同姓だが赤の他人)が立ち会った。そこで倫理の試験問題に「動機善にして悪なる行為ありや」という問題があった。学生の多くは「動機善なる時は行為も亦善なり」という答を書いていた。それを隈本視学官はその考えは「伊庭想太郞や島田一郎、来島恒喜、西野丈太郎の行為も非認されぬ訳とな」る、つまりはテロリストを容認するではないか、と問題視し、哲学館に認められていた中等教員免許の無試験検定資格を剥奪したという事件である。なお、事件の詳細については松本清張『小説 東京帝国大学』新潮文庫で手軽にわかる。
(文中引用は「哲学館認可取消事件 当事者たる隈本視学官の談」清水清明編『哲学館事件と倫理問題』)

注② 新谷恭明『尋常中学校の成立』九州大学出版会 実は僕はこちらの第一人者なのだ(笑)。明善高等学校とか豊津高等学校(現育徳館高等学校)の関係者にはとても楽しめる本だと思う。学術書にして痛快読物ってか。

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