第14回 亡国の祝詞(その2)

 

 そして1年が経った。明治20年12月2日。再び福岡県会の議場である。そして、尋常中学校費の審議が行われた。福岡県の税金を使った尋常中学校は福岡尋常中学校のみではあったが、豊津では明治19年中に小笠原家から支援を得ることとして明治20年5月から諸学校通則第1条による県立尋常中学校となっていた。中学校令では地方税(県税)による県立尋常中学校は1校だけと決められていたが、資金を寄附し、管理を県に任せれば県立にしていいという都合のいい規則で、この制度を利用して自力で尋常中学校となっていたのである。そして久留米はこの豊津のやり方に倣って動いたが遅きに失した。とはいえ、なんとか有志の募金を集めて仮設久留米尋常中学校として、次の段階を睨んでいた。
 そういう中で県税を使う県立尋常中学校費の審議が行われたのだ。というのが教育史研究的叙述であるが、県会では尋常中学校なるもののあり方について激論がたたかわされた。その中で豊津尋常中学校を維持している仲津郡選出の征矢野半弥(そやの・はんや)議員は長々と尋常中学校費廃止論を展開した。その第一の論点は学校観、教育観にかかわるものである。長いけれど掲げておきたい。例によって史料は飛ばして読んでかまわない。これはあくまで僕の趣味だから。

・・・本員ハ本項六百円ノ校長給ヲ全廃セント欲ス即チ地方税ヲ以テ尋常中学校ヲ設立スルハ不可ナリトスルモノニシテ県立ヲ好マサルモノナリ其理由ヲ三段ニ分チ是レヨリ陳述スヘシ第一ハ干渉教育ハ国家ノ元気減少スルヲ以テ之ヲ全廃シテ而シテ教育ノ独立ヲ保タント欲スルニ在リ何ントナレハ現今我国ノ租税ヲ以テ支弁セル教育社会ノ有様ヲ目撃スルニ大木河野ナリ森ナリ文部省ノ長官其人ヲ更迭スル毎ニ其方針ヲ変更シ更ニ教育ノ独立ヲ見ル能ハス其ノ甚シキニ至リテハ殆ント教育ヲ以テ政略上ノ方便トナスノ観アルニ至レリ故ニ自分ハ之ヲ政事ノ範囲外ニ独立シ以テ教育家ノ専任ニ委セント欲スルナリ曽テ自由教育ノコトニ付聞シ事アリ其ハ往昔水戸弘道館設立ノ際或人カ藤田東湖ニ向テ将来ハ貴殿ノ如キ真成ナル学者ハ出サルヘシトノ話ニ東湖氏ハ訝ツヽ其ハ如何ナル理由ナリヤト問ヒシカハ該人ハ之レニ答テ今日ノ書生ハ憚リテ政事家ノ鋳形ニ鋳込マレ居ルヲ以テ到底真ノ学者ハ出サルヘシト云ヘリ夫レ然リ而シテ聞ク処ロニ拠レハ加藤教頭ハ卒業免状授与式ノ際生徒ニ対シ演説シタル主旨ハ卒業ノ後或ハ政社政党ニ加ハリ政談抔ハ決シテナスヘカラストノ演説アリシト其後本県会ニ於テ右加藤教頭ニ付番外ニ質問セシニ学務課長八重野君ハ其レガ正シク我カ福岡県ノ方針ナリト答ヘタリ又タ聞ク所ロニ拠レハ八重野君カ該校生徒ニ対シ卒業ノ後ハ知事郡長ノ奴隷トナリテ多年育英ノ報酬ヲセヨトノ演説ヲセリト是等ノコトハ敢テ歯牙ニ掛ニ足ラスト雖トモ到底今日ノ有様ニテハ独立不羈ノ教育ハ決シテ望ムヘカラサルナリ・・・・・・

 征矢野は三つの観点から尋常中学校費全廃を主張したのであるが、その第一の理由として「干渉教育は国家の元気を減少する」というものであった。干渉教育とは国家が教育に口を出すということで、干渉といっても経営面のことであったり、教育の内容に及んだりとその考えは幅広かった。
 この干渉教育論に対する考えは自由教育論で、あの植木枝盛が『愛国新誌』誌上で唱えた「教育ハ自由ニセザル可カラズ(教育は自由にしなくちゃいけない)」がその代表的なものだったと言える。
 それはともかく、征矢野は植木の言う干渉教育が日本の元気を削いでいくことになるから、中学校費は廃止して、民間に任せ、教育の独立を保たなくてはならない、と主張する。なぜならば今の日本の教育政策は大木(喬任)、河野(敏鎌)、森(有礼)と文部省のトップが変わるたびに方針が変わり、教育の独立とはほど遠い。その結果、教育を政治の道具に使っている。だから自分は教育は政治から引き離し、教育の専門家の手に委ねたいと言う。
 さらに征矢野は自由教育について語る。まずは水戸弘道館設立の際にある人が藤田東湖(注)に対して言ったそうな。
「将来、あんたのようなまともな学者は出ないよ」
 で、藤田東湖はなぜそう思うのだと問い返したところ、
「今どきの若者は遠慮して政治家の鋳型にはめられていて、到底まともな学者にはなるまい」と指摘したという。
 この話を引き合いに出して、征矢野は昨年の話を持ち出した。
「(福岡中学校の)加藤教頭(校長!)は、卒業後は政社に入ったり、政治的な議論をするべきではないと言った。それを県会で問いただした時に八重野学務課長はそれが福岡県の考えだと答えたよね。」
 と加藤校長の前回紹介した演舌に触れた。そして、
「さらに聞くところによれば、八重野課長は福岡中学校の生徒に対して『卒業後は知事や郡長の奴隷になって、これまで恩に報いよ』と演説したらしいではないか。こんな有様では独立不羈の教育なんて考えられないだろう」
 と福岡県の現在の考え方が干渉教育の考えであり、それでは「独立不羈の教育はできない」し、国家の元気もでない、と主張したのだ。
 たかが卒業式の挨拶である。しかし、それは2年間にわたって県の教育姿勢を問うこととなった。その問いは権力のいいなりになる人間、若しくは揃いの浴衣を着て喜ぶ人間を育ててはならない。そんなことをしたらこの国はダメになる。という危機感をあらわしていた。
 やがて、この国は国民が同じ揃いの浴衣を着るようになり、国家自体を破綻にまで追い込んでしまった。そしてまた今も同じ揃いの服を着せた従順な国民を作ることを教育だと思っている教育関係者も少なくないのではないか。そしてまた、厭々ながらも自ら揃いの浴衣を着たがる子どもたちも増えているのではないかと危惧する次第である。


注 藤田東湖(文化3年~安政2年)は水戸藩の学者で、明治維新を誘導した尊皇攘夷思想の基板となる所謂水戸学の中心人物であった。藩主徳川斉昭の信頼篤く、藩校弘道館設立に際しては「弘道館記」を著した。僕の書斎には藤田東湖の書を染め抜いた手拭いを飾っている。

 誠者天之道也誠之者人之道也  藤田彪 書

 読み下すと「誠は天の道なり、之を誠するは人の道なり」と読む(宇野哲人全訳注『中庸』講談社学術文庫)。宇野先生によると、その意味は以下の通りである。
 誠とは真実無妄(しんじつむぼう;いつわりもなくいい加減なこともないことのことであって、それが天の道なのだ。天道は自然にしたがい、謬りはない。人間もそのように誠であるはずなんだが、凡人は欲望やら生活やらなんやらのおかげで真実無妄にはなれない。それで努力勉強活動して誠(真実無妄)になろうとするのは人の道である。まあ、だから真実無妄をめざして頑張れ、つまり天の道に沿うよう政治的な意見を持って活動せいということなんでしょうね。征矢野半弥がこの逸話を引用したのは問題が教育だからだ。誠の道を行うのは人の道だ。政党政談も誠する行為でこれを禁ずる加藤教頭(実は校長、征矢野の頭の中で格下げされている?)は教育者として非道(天の道に非ず)だと言いたいのであろう。
 



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