第16回 学校教育と受験勉強

  前回は受験勉強は個人の問題だと書いた。仲間意識だとか、共にがんばるとか、そんなことを言いたい人もいるのかもしれない。しかし、それはお友達同士で「いっしょにがんばろうね」みたいに声を掛け合う程度のなら友情の問題なのでともかく、そこに学校やら教師が介入してはいけないのだ。
 なぜか。それは学校教育の目的ではないからである。この国の国民は法より因習を重んじる傾向があるので、少なくとも「日本は法治国家である」ということくらいは学校で教えてほしい。教育の目的についてはいくつかの法律に明記されている。
 まずは教育基本法。
 第一条に「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とある。「人格の完成」と「平和で民主的な国家及び社会の形成者」を育成することと書いてある。どこにも上級学校への進学などは書いていない。
 そして第二条には「教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。」として以下の5点の目標が掲げられている。(めんどくさければ読まなくてもいい)
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
 「我が国と郷土を愛する」あたりに過敏に反応する人もいるかもしれないが、ワールドカップで日本が勝った時に「よしっ!」と思った人は文句を言ってはいけないし、相手国を応援した人は何か特別な理由があるのだろう。ワールドカップは国と国の対抗戦だから、どうしても参加国にとってナショナリズムは否定しにくい。ま、その程度のことである。しかし、進学だの受験だのという言葉はその影も見えない。と言うことは学校で受験指導を職務だと思ってやっている人は法律で定められた職務をおこなっていない、職務以外のことをしている、つまり公務員として職務専念義務に反しているということになる。
 次いで「学校教育法」。
 中学校については「中学校は、小学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、義務教育として行われる普通教育を施すことを目的とする(第四十五条)」、高等学校もまた「高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達及び進路に応じて、高度な普通教育及び専門教育を施すことを目的とする(第五十条)」と目的が記されているが、そこにはやはり進学だの受験だのという言葉の影は見えない
 もちろん、上級学校への進学を目的としてきた歴史的経緯はあるし、法的にもそれを暗に認めていたこともある。
 明治14年に、教育令の改正を受けて制定された「中学校教則大綱」には「中学校ハ高等ノ普通学科ヲ授クル所ニシテ中人以上ノ業務ニ就クカ為メ又ハ高等ノ学校ニ入ルカ為メニ必須ノ学科ヲ授クルモノトス(第一条)」とあった。「進学のために必要な学科を教える」と明記されていたのである。これは明治19年に定められた「中学校令」に継承されたが、この中学校令が明治32年に改正されると「中学校ハ男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以テ目的トス」と改められた。
 なんと、「男子に須要な」とある。女子はどうしたか、というと同時に作られた「高等女学校令」で「高等女学校ハ女子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以テ目的トス」とやはり高等普通教育とだけあって、上級学校への進学を匂わす言葉は見当たらない。
 明治27年に高等学校という学校が出来、そこには「高等学校ハ専門学科ヲ教授スル所トス但帝国大学ニ入学スル者ノ為メ予科ヲ設クルコトヲ得(第二条)」とあるように専門学科を本体としつつも帝国大学入学のための予科の規定があった。但し、この予科も大正7年の改革で「高等学校ハ男子ノ高等普通教育ヲ完成スルヲ以テ目的トシ特ニ国民道徳ノ充実ニ力ムヘキモノトス(高等学校令第一条)」と「高等普通教育」に目的を一本化し、むしろ道徳教育の色彩(人間形成)を強めるようになっていた。
 もちろん、上級学校への進学を想定した過去の法令の趣旨も上級の学校で必要な基礎学科という意味であって、受験指導ということではなかったことは誤解の無いように言っておく。
 にもかかわらず、「受験」というのは教師たちにとって危険な薬物であった。何故ならば、結果が数字で見えるからである。数字は科学的なようでいて、はたまた厳密なようでいて、実はだましの装置なのである。
 


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