第15回 偽善者を育てる

  以前、『平和で民主的な国と社会を創る道徳教育のススメ』(福岡県教育総合研究所)という小冊子を書いたのだが、その中で天野貞祐の『道理の感覚』(1937年)の言葉を引用して、天野の修身科教育に対する批判を以下の3点に整理してみた。
 ①生徒が偽善的になる
 ②生徒が道徳的な価値に対して無関心になったり反抗的になる
 ③道徳的価値が他人事になってしまう
 なので、このことについては当該小冊子を読んでいただければいいのだが、関係者以外には手に入りにくい冊子なので、上記のように要点だけを挙げておいた。そして、天野が修身科について書いたことは、人権においてもあてはまる。人権もまたひとつの社会的価値だからである。
 偽善的というのは口先では「選挙の時に投票するのは国民の権利」、「差別はいけない」し、「人権は大切」とか言ったり、試験の答案やアンケートには書くけれど、実際には選挙には行かないし、いじめはするし、人権なんてめんどくさいと思っていることだ。口ではきれいごとを言い、実際は現実的に本音で生きている。
 自分のことを振り返りつつ思うのは、人間というのはどこかしら偽善的なものである。僕自身もそうだし、否定はしない。だけどもそのズレを少しでも少なくしていくことが大切なのではないだろうか。また、逆に言えばズレが大きいほど生きるのはしんどいことになる。自分にとって意味のなさそうなことを無理に覚え、それとはちがう生き方をする。しかし、その生き方に迷うた時にすがる〈知〉がない。自分にとって意味がないと思っていた受験知は根本から意味を失っているだろうからだ。本音にちかいところで生きていくのがいちばん楽だということだ。
 それなら自然にいじめをしない生き方になればいい。あたりまえのこととして選挙に行くようになればいい。そういうふうに人権意識や権利意識が身についていけばいいのだが、天野貞祐が指摘したように一方的に「人権は大切」「いじめはいけない」、「選挙権は国民の権利だ、と試験の時は書いておけ」、「労働三権とは団結権、団体交渉権、団体行動権というを覚えとけ」といった授業のやり方では、偽善者を育てるだけだ。いじめをしない人間を育てる、選挙に行って投票する人間を育てる、就職したら労働組合に入って自分たちの権利を守る。そういうふうに学びの成果を自分の身におこなって初めて教育の成果があったという。何点取ったとか、どこそこの学校に合格したとか、採用試験に通ったとか、国家試験の合格率が上がったとか、そういうことは教育とは関係のないことなのだ。
 学校で学ぶあらゆる知識はこの国で生きる人間にとって必要な〈知〉である。しかし、意味を奪い、点数に換算するためにだけ知識を詰め込んでいけば、子どもたちは何も学ばずに学校を通過することになる。いや、学ぶものはあるだろう。知識は所詮きれいごとで、勉強なんて退屈なものでしかない、とか。
 今、私たちが暮らしているこの社会、日本という国と考えてもいい。この国がどういう国か。この国が国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を国是としてきたのはなぜか。それ以前になぜ権利というものが、人権というものが考え出されたのか、そしてそれは現在の自分たちにとってどういう意味を持っているのか、ということが詰め込みではなく、自分たちの学びとして学ばれることが、他人をいじめることの罪深さ、選挙に行くことで国や社会の形成に参加する意義、働くと言うことの価値と自身の保護、そういうことを自らの身体で学習することである。
 ところがそういう学びが為されず、不毛な詰め込みと管理的な学校生活を過ごせば、小賢しい処世術とそのための偽善的行為しか出来ない人間を育てることになるだろうし、既になっている。
 では、受験勉強がダメなのか、と言っているのではない。受験は自分の人生の選択肢を獲得していくために必要なことだ。しかし、それは学校の仕事でもないし、教師の仕事でもない。あらゆる受験は個人の問題なのである。「受験は団体競技だ」と言った人がいる。ふざけてはいけない。受験は全くの私的領域であり、学校や教師が直接手をくだすものではない。受験はそれぞれの子どもたちの人生の中の選択肢の1つである。人間として子どもたち一人ひとりの人生をリスペクトすることが第一義である。それを団体競技などと称して、一緒くたに学校教育の中に矮小化することは子どもたちの人生そのものを矮小化することに他ならない。教師の凡庸な人生経験が子どもたちの多様な可能性に満ちたこれからの人生を束ねることができるほどの価値があると思うのは思い上がりに過ぎない。(別に教師の人生が凡庸だと侮っているのではない。その程度の謙虚さを持つべきだと言っているのだ。ややもすると他人の人生にメスを入れてしまうのが教師だからだ。)
 教師が関わるとすれば、当該生徒が自分の人生を自分のこととして考え、そのために自分の学びたい高校やら大学を選択し、自分の人生を切り開くために自分で自分なりの努力をするようにさえすればいい。それだって、学校卒業直後の問題ではない。いつだって自分の人生を自分のものとしてとらえ、そのために〈なにかする〉のであればそれでいいのである。
 これ以上、知識を一つの正解として詰め込むやり方、つまり偽善者を作り出すようなことをしていけばこの国は確実に滅んでいく。僕の専門とする教育史から見ると、日本の近代教育はずっとこのやり方をしてきた。それならとっくにこの国は滅んでいると言われるかもしれない。おそらく天野貞祐が前記の『道理の感覚』を書いた頃、日本という国は道徳的に破綻していたのだと思う。この続きはいずれまた・・・・・・
 
 
 

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