第21回 校則の見直しへの警告

  で、しばらく前のことになってしまったが、2月2日の西日本新聞には福岡市で校則の見直しが始まったという記事が載っていた。

「福岡市立中 校則見直し」https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1048422/
 記事によれば、髪型のツーブロックやポニーテールの禁止など、合理的な説明が出来ないブラック校則を見直すというもののようだ。
 校則や生徒心得についてはすでに僕は『校則なんて大嫌い!学校文化史のおきみやげ』(福岡県人権研究所)において、少し見解を書いた。一つは校則や生徒心得というものの歴史を振り返ればその時その時の「心得」を書いたものが、役割を終えてもそのまま削除も変更もされずに残ってしまって、言わなくてもいい「心得」として残ってしまったこと。それに最近では(と言っても、この30~40年)「教育しない」校則や生徒心得が増えてきたことを指摘した。
 で、この記事によると、市教委は「生徒の意見を反映させることで自主性の向上につながって」いるとの見解を示し、文科省も「生徒が参画する教育的意義を認めている」としているのだが、いったい子どもたちに何をどう教育しようというのかが問題になる。文面通りに受け取れば、一つは「自主性の向上」であり、もう一つは生徒が「(校則策定に)参画する教育的意義」である。
 「自主性」というのは「自主的に行動する態度」(新明解国語辞典第八版)であって何事に対しても進んで取り組む姿勢と考えていいのかな。それは生徒の意見を反映することで身につくものではないと思う。
 もしかして生徒たちが「制服を廃止する」とか、「茶髪やパーマを認める」とか、「化粧を認める」なんてことを提案してきたらどうするのだろうか。「それでかまわない」という人もあるだろうが、何か一言生徒に釘を刺しておきたいと反応している人は多いはずだ。制服を廃止しても中学生らしい身だしなみをするようにとか、茶髪やパーマも派手にならないようにとか、化粧もガングロ(あ、古すぎ!)は禁止とか、何か言いたくなるのではないだろうか。そんな制限付きの議論を「自主性」とは言わない。
 そして最も重要なことは学校(国)としての教育観・教育目的はまず示されていないことである。この国の教育の目的は何か。これは何度も繰り返して言うつもりだが、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない(教育基本法第1条)」と明確に謳われている。安倍内閣が作った教育基本法である。その教育基本法はこの目的を果たすためにすることとして5つの目標をあげている。その内容に不満はないかと言えば、僕はあるけれど、「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」はどうしたら備わるのだろうか。そこから自分の教育を考えていくのが国民の忠僕(全体への奉仕者)である国家の教師の職務なのである。
 目的があって方法がある。これは誰でも知っていることだ。そして、学校だけがそれを知らない。これもまた僕はしばしばいろんなところで引用しているのだが、I.イリッチは『脱学校の社会』のなかで「(学校は)目的を実現する過程と目的とを混同させる」と指摘したことが今や深刻な末期症状に至っていると考えられる(新谷『なぜ中学生はたばこを吸ってはいけないの 学校文化史の言い分』福岡県人権研究所 2012)。過程(=方法)と目的を混同していくと、手をかければかけるほどいい結果が得られると勘違いしていくとイリッチは50年程前に言ったのだ。そして現代の日本は彼の危惧通りになっている。そのことを私たちは自覚すべきなのだ。実際、僕自身の身体で感ずるのだが、自分が育った時(けっこう口喧しい親に育てられたと思うのだが)よりも自分が親になった時代、そしてそれよりも孫の代になってさらに子どもたちに手をかけている気がする。
 それは一人ひとりの親や教師の意識の問題なのではない。子どもを取り巻く環境がそうなっていて、親や教師がそうした時代の風潮に乗せられているからなのだと僕は見ている。だからつい手をかけてしまっているのである。
 なので、私たちは自覚的に子どもたちを自立させていく努力をしなくてはならない。
 校則についてのこれらの記事は子どもたちに干渉しないと気が済まない現代という時代を表象していると思われる。
 





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