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第25回 してはならぬ二十箇条

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   またまた二つの雑誌を並べてみた。ほんとうは貴重な史料なのでこんなふうに開いて痛めるリスクを与えたくはないのだが、現物を見てもらうには、ま、致し方ないというところかな。ということで、本題に入ります。  これは前回紹介した両誌の明治41年7月に発行した号のそれぞれのとある頁である。『家庭之友』には「母親のしてはならぬ事(二十四ヶ条)」、そして『婦人之友』には「主人のしてはならぬ事(二十箇条)」というよく似た記事が載っているのだ。二誌を並行して編輯・発行していた羽仁もと子ならではのお遊びとも思えるので、こちらも遊んでみたい。  まずは左側の『家庭之友』の「母親のしてはならぬ事(二十四ヶ条)」という記事である。写真では見にくいだろうから、以下に記事を転載する。仮名遣いなどは最小限ではあるが、現代風に改めておいた。 **************************************        母親のしてはならぬ事(二十ヶ条) 一、子供の中のある一人を偏り愛してはならぬ事。 二、少しぐらい言うことを聴かぬとて、いちいち子供を責めたててはならぬ事。 三、愛を含んで厳格にするのはよいけれど、ガミガミと小言をいってはならぬ事。 四、何故にその事の悪いかを教えずに、一方的に子供をおどしつけてはならぬ事。 五、早速に実行の出来ないことを子供に約束してはならぬ事。 六、子供を召使のみ任せて置いてはならぬ事。 七、子供を驚かすようなことをしてはならぬ事。 八、子供を叱り、または懲らしめる場合に、怒りを以てしてはならぬ事。 九、同じく子供を叱り、または懲らしめる場合に子供を辱(はずかし)めてはならぬ事。 十、喰い過ぎをさせてはならぬ事。 十一、子供のいろいろな質問に対して、飽きたり五月蠅(うるさ)がったりしてはならぬ事。 十二、子供の自信を傷つけるようなことをしてはならぬ事。出来るだけ自信を養わせるように勇気づけてやらねばならぬ事。 十三、子供がなにかしようとする時に、それを貶(けな)したり妨げたりしてはならぬ事。むしろどうしたらそれを能くすることが出来るかについて教え導いてやらねばならぬ事。 十四、子供の教育に関して、みだりに父親の意見にさからってはならぬ事。 十五、太陽の光、新鮮なる空気の中に、子供を出すことを忘れてはならぬ事。 十六、子供が日に焼けるのを恐れてはならぬ

第24回 羽仁もと子と二つの雑誌

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 似たような雑誌を並べてみた。左側は『家庭之友』、そして右側は『婦人之友』だ。『家庭之友』の上端には「羽仁吉一もと子編輯」と書いてあり、『婦人之友』のほうには羽仁もと子編輯となっている。で、発行日は『家庭之友』が明治41年7月3日、『婦人之友』が明治41年7月15日となっている。それで双方の編輯者に羽仁もと子の名があるというところにまずは注目してほしい。  羽仁もと子についてはすでに『 校則なんて大嫌い! 学校文化史のおきみやげ 』(公益社団法人福岡県人権研究所)で「羽仁もと子 家計簿がかちとったもの」という項で紹介した。そこでこの二つの雑誌について「そして、二人で出版社を始めた。最初は『家庭之友』といい、やがて『婦人之友』と改称した雑誌を編集・発行することになったのである」と説明したのであるが、この一文は訂正させてほしい。なぜならばこの書き方はまちがっていたからである。  まちがいというより新しい発見だった。それまで、本家本元の婦人之友社のホームページでも『婦人之友』は『家庭之友』を改題したものだと書かれているし、創業も1903(明治36)年と書いてあるからだ。  しかし、『家庭之友』は当初内外出版協会というところから発行されていた。この出版社は婦人之友社の前身ではない。この内外出版協会というのは山縣悌三郎という人物が経営していた出版社で、そこへ羽仁もと子の夫の吉一が訪ねてきた。「妻のもと子に適当な賃仕事(ジヨブ、ウアーク。たぶんjobworkのこと)をくれないか」という頼みごとであった。で、山縣はもと子が報知新聞に書いた家庭に関する記事を見て気に入り、毎月30円の給与で新しい雑誌『家庭之友』の発行をさせたということだった。なので、編集室は山縣邸にあった内外出版協会ではなく、羽仁の私宅においたのであった。  そうして数年が経ち、羽仁夫妻は独立したくなり、明治41年1月に家庭之友社という出版社を作って『婦人之友』を発行し、『家庭之友』は内外出版協会から発行する、編集室は何れも羽仁邸というややこしいことをしていた。そして、明治42年1月から内外出版協会から離れ『婦人之友』のほうのみを発行することにした。『家庭之友』は内外出版協会がしばらく発行し続けたが、やはり羽仁もと子のセンスは継承できず廃刊ということになったということだ。だから、『校則なんて大嫌い!』に書いた一文は

第23回 校則を無くしたらどうなるの?

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 福岡県人権研究所の機関誌『リベラシオン』191号は「人権教育の地平」というのが大きな特集になっていて、巻頭に「人権・同和教育のこれから」という文章を書かせてもらった。ていうか、このタイトルで特集をする条件として理事長がなんか書けというのが編集担当理事からの命令であった。で、書き出したらけっこう長くなってしまい、「長すぎる」という意見もいくつか頂戴してしまった。  学校現場では人権・同和教育をやってきたベテラン教員と新採用の若手教員の間の溝が大きすぎるので、同和教育の成果が継承されていないというような意見もあるようだ。だけど、そんなことはない。すでに同和教育が始まって(福岡市長選挙差別事件〔1956年〕を起点とすれば)20年も過ぎた頃には同和教育は形骸化していたという自覚があったらしい。取り立てて誰かに責任を押しつけるわけではないが、僕が同和教育に首を突っ込んだ1990年代初めは形骸化もだいぶ進んでいたということになるが、そんなふうには感じなかった。「人権教育のための国連10年」というものが降りてきて、同和教育は人権教育という無味無色のものに取り込まれてしまうのではないかという危機感があたりを染め始めていた記憶がある。見方によれば、それだけ「同和教育」なるものには存在感があったということになる。  しかし、まもなく同和教育のある時期のリーダー的存在だった東上高志氏が1996年に『同和教育の終わり』なる本を出し、同和教育は役割を終了したかのような宣言をしていた。一方、同和教育にこだわる側とても「人権教育」を否定することはできない。かと言って、同和教育を人権教育の中に埋没させていくのは今までの努力が水泡に帰するかのような不安があったのではないかと思われる。実際僕もそう感じていた。それを引き摺ってか、僕を代表にして毎年開催している宗像エリアでの人権・同和教育の集いは宗像地区「同和」教育研究集会とカッコ付きの「同和」教育を使っている。  それはともかく、「同和」教育の歴史を振り返ってみると、先達の仕事はすばらしかった。一つ挙げてみよう。「今日も机にあの子がいない」という合言葉で学校に出てこない子どものところに通い続けた先生たちが部落差別という子どもの現実を見つけ出した。いわゆる「差別の現実に学ぶ」という原則だ。そして同和教育の大先輩である堀内忠氏は「部落差別の現実に深く学ぶ

第22回 『破戒』を見よう

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  昨年、60年ぶりで島崎藤村の『破戒』が映画化された。全国水平社百周年を記念しての制作であり、昨年の3月3日、全国水平社創設の地である京都の元岡崎公会堂での記念式典で上映されたのを見た。ついで、一般公開に際して、人権研究所が販売したチケットを購入して家族と見に行った。そうしたら突然、宗像市から市が人権映画として上映するので解説をしてくれという話が舞い込んだ。そういうわけで当実用に作ったのが次の文章だ。  で、ここに書かなかったことから。映画では主人公の瀬川丑松は何年生の担任だったか。映画を見る限り、現在の小学校高学年程度に見えたのではないかと思う。時代設定は1904(明治37)年である。学校制度としては尋常科4年高等科4年であり、尋常科4年が義務教育であった。そして高等科4年卒業後中学校に進むという制度だった。しかし、明治40年から義務教育は6年に延長され、尋常科6年(義務教育)と高等科2年で、尋常科6年卒業後中学校進学ということになり、高等科はいわゆる袋小路の課程となって、中学校進学を予定しないコースとなった。  原作ではこの小学校は尋常高等小学校であって、瀬川丑松は高等科4年の担任である。なので、あの子どもたちに出自を告白する場面で、 「皆さんも最早十五六――満更世情を知らないといふ年でも有ません。何卒私のいふことを克く記臆えて置いて下さい。」 と丑松に言わしめている。高等科4年は現在で言えば、中学二年生である。当時は一般的に数え年でいうので、4月に高等科2年に進級したのはその年の正月に数え年15歳になった子どもである(早生まれは14歳)。  丑松の告白は12月のことであり、「最早十五六」と言ったのはまもなく十五六になるぞ、という意味である。「最早」には「もう」とルビが振ってあるのはそういうことだ。そのくらいのオトナなので、丑松は深刻な自分の出自問題を告白することにしたのである。 映画を見るときは丑松が担任する子どもたちを現在の中学2年の少年であることと、当時のこの年齢の少年たちは今の子どもたちよりもオトナであったことも踏まえた上で見てほしい。それはともかく上述の解説文に書いておいたのだが、藤村の『破戒』はしばしば誹謗の対象とされてきた。『水平新聞』掲載の「第一五回大会報告」に井元麟之による緊急動議が掲載されている。 ・・・・この作品は(『破戒』)、申す迄もな

第21回 校則の見直しへの警告

  で、しばらく前のことになってしまったが、2月2日の西日本新聞には福岡市で校則の見直しが始まったという記事が載っていた。 「福岡市立中 校則見直し」 https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1048422/  記事によれば、髪型のツーブロックやポニーテールの禁止など、合理的な説明が出来ないブラック校則を見直すというもののようだ。  校則や生徒心得についてはすでに僕は 『校則なんて大嫌い!学校文化史のおきみやげ』 (福岡県人権研究所)において、少し見解を書いた。一つは校則や生徒心得というものの歴史を振り返ればその時その時の「心得」を書いたものが、役割を終えてもそのまま削除も変更もされずに残ってしまって、言わなくてもいい「心得」として残ってしまったこと。それに最近では(と言っても、この30~40年)「教育しない」校則や生徒心得が増えてきたことを指摘した。  で、この記事によると、市教委は「生徒の意見を反映させることで自主性の向上につながって」いるとの見解を示し、文科省も「生徒が参画する教育的意義を認めている」としているのだが、いったい子どもたちに何をどう教育しようというのかが問題になる。文面通りに受け取れば、一つは「自主性の向上」であり、もう一つは生徒が「(校則策定に)参画する教育的意義」である。  「自主性」というのは「自主的に行動する態度」(新明解国語辞典第八版)であって何事に対しても進んで取り組む姿勢と考えていいのかな。それは生徒の意見を反映することで身につくものではないと思う。  もしかして生徒たちが「制服を廃止する」とか、「茶髪やパーマを認める」とか、「化粧を認める」なんてことを提案してきたらどうするのだろうか。「それでかまわない」という人もあるだろうが、何か一言生徒に釘を刺しておきたいと反応している人は多いはずだ。制服を廃止しても中学生らしい身だしなみをするようにとか、茶髪やパーマも派手にならないようにとか、化粧もガングロ(あ、古すぎ!)は禁止とか、何か言いたくなるのではないだろうか。そんな制限付きの議論を「自主性」とは言わない。  そして最も重要なことは学校(国)としての教育観・教育目的はまず示されていないことである。この国の教育の目的は何か。 これは何度も繰り返して言うつもりだが、「 教育は、人格の完成を目指し、平和で

第20回 戦争の落とし前はつけたのか~勇気ある平和国家の志を考えよう (つづき)

 しばらくサボっていました。  理由はいろいろあります。たとえば足の指を剥離骨折したとか、2月にインド旅行に行ったとか。いいわけはいくつもあります。なんで剥離骨折なんかしたのか。簡単なことです。休呆堂の中は本だのモノだのちょうど歩く足の通る高さに罠のように待ち構えていて、一日に何回かは足の指が接触している。たまたま勢いがついてコツンとあたった指が運の悪い角度というか、タイミングというか、やっちまったという次第だ。  で、インド旅行はどんな旅行だったか、と言うと、今回は今まで行ったところに行き、特に移動もせず、なじみのホテルでゴロゴロするというだけの旅でした。ま、夜行列車=寝台列車という非日常がそれなりのお土産をくれましたが、それについては興味があれば、この 『バラナシを発つ』 というブログを見てください。 なので、特にたいしたこともないのんびりした旅行でありました。驚いたのはガンジス河畔がますます俗化していたということです。  とは言え旅の後遺症はありますね。 長旅を終へても旅が終はらない今日もぼんやり時を見てゐる   休呆  こんな感じかな。要は怠け癖がついたということ。日々撮りためたテレビドラマやら映画やらをボッと見て英気を養い続けているのです。  で、そうこうしていたら、入れ違いとは言わないけれど、インドを訪れていた岸田首相がなんと世間の眼を欺いて裏口からこそこそ出て、ウクライナに入り、ゼレンスキーと会談したのだとか。それって、日本はロシアの敵国ですよ、と宣戦布告したようなものではないだろうか。そういう緊張感を生む国際情勢に向かう姿勢が岸田流の「現実主義(リアリズム)」なのだろうか。  そんな感じで岸田文雄『核兵器のない世界へ~勇気ある平和国家の志』の第三章を読み進めよう。第三章は「核廃絶のリアリズム」。何がリアリズムかというと、核廃絶に向けて北朝鮮と、中国、ロシアの姿勢が邪魔をしているということだ。そして、「核なき世界」を表明してノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領に代わってトランプがそれをひっくり返した発言をやり出したのがもう一つの難題だという程度である。  じゃあ、日本はどうするのか、ていうより岸田は何をするのか、というとこうなる。   しかし、ベルリンでの演説の途中もオバマ大統領自身が「いくら実現が困難でも、核なき世界こそ正義のある世界だ」と口にした通

第19回 戦争の落とし前はつけたのか~勇気ある平和国家の志を考えよう

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  沖縄に行ってきました。福岡県人権研究所では海外人権スタディ・ツアーというのをずっとやってきています。韓国、ベトナム、タイなど外国に旅して人権問題を考えるという企画ツアーです。けっこう人気があり、リピーターも多いと聞いていましたが、コロナ禍で3年程お休みしていました。  コロナ・ウィルス対策政策も方向が変わり、多少の旅行は逆に推進されるようにもなってきたので、再開することにしました。とは言え、外国旅行はまだちょっと不安ということもあり、福岡から見れば「海外」ではある沖縄旅行が計画されました。で、ワタクシは大好きな沖縄ということもあり、この企画に参加することにした次第です。但し、一会員として。。。  「一会員として」と言って逃げたのは部会長さんには申し訳なかったかとも思いますが、そこはお赦しください。  沖縄には何度も言ってますし、戦跡も住民が避難していたという洞(ガマ)もけっこう見てきてはいますが、今回は人との出会いが大きかった。詳しくはツアーの報告書も作ることになっているし、ここでは触れないで起きます。ただ、今回のツアーも若い現職の方が少なかった。せっかくいい出会いがあっても、平和教育や人権教育に活用する広がりがないと次の世代に継承されないしね。  チビチリガマとシムクガマを案内してくれたのはあの知花昌一さんの息子さんだった。知花さんも戦後生まれだから、戦争を知った世代からすれば三代目になるということで、戦争体験の継承ということも大きな課題なのだろう。何度も言ってきたことだけれど、戦後78年目に入る。戦争はもはや歴史になりつつある。ただ、沖縄は歴史が米軍基地として現在に繋がっている。いい企画で、いいツアーだった。  さて、沖縄から帰ってきてほどない1月13日に訪米中の岸田首相はバイデン大統領と会談し、日米共同声明を発表した。その中でロシアについて触れた箇所がある -------------------------------------------------------------------------------------- ・・・我々は、ロシアのウクライナに対する不当かつ残虐な侵略戦争に断固として反対することで一致している。我々は、引き続きロシアに対する制裁を実施し、ウクライナに対する揺るぎない支援を提供していく。我々は、ロシアによるウクライナでのいか